関東大震災Click!の直後から、当時は東京市外だった落合地域には、次々と市内から引っ越してくる人々の住宅が建ちつづけた。関東大震災の以前、すでに明治末から大正初期にかけては“田園都市”という住環境の考え方から、落合府営住宅Click!が目白通り沿いに建ちはじめ、震災の前年には箱根土地による目白文化村Click!や、東京土地住宅による近衛町Click!、さらに追いかけてアビラ村Click!(芸術村)の販売や造成などがスタートしていたのだが、震災後には住まいを危険な市街地ではなく、安全な東京郊外へ・・・という流れが一気に加速することになった。
 その時期に建てられた住宅は、日本家屋ももちろん数多くあったのだが、下落合にはハイカラな西洋館が数多く立てられることになる。関東大震災では、重たい瓦の載った家々が数多く倒壊しているため、屋根の重みをできるだけ軽くして地震でも倒壊しにくい住宅を建設することが、東京府では大きな課題となっていた。そのため、屋根には重たい瓦ではなくトタンやスレート、薄い銅板・鉄板などを用いることが奨励されたのだ。瓦を使用しない住宅というと、日本家屋ではまったくサマにならない。したがって、西洋館あるいは和洋折衷という意匠が多くなるのは、「文化住宅」や「田園地域の文化生活」の流行とともに、ある意味では必然的でもあったのだ。
 わたしの家を含め東隣り2軒も、1923年(大正12)前後に建築された当時の西洋館が建っていたようだ。建物のデザインは、ちょうど佐伯祐三アトリエClick!の下見板外壁に中村彝アトリエClick!の赤い尖がり屋根にも似て、あめりか屋Click!あたりが建てそうないかにも大正時代らしい建築の意匠をしていた。もちろん、3軒ともすでに解体されて現存してはいないけれど、いちばん東側のアトリエ然とした白いY邸は、2000年前後まで建っていたのでわたしも目にしている。
 
 
 当時、目白文化村や近衛町といった、大手ディベロッパーによる大規模な住宅造成地ではなくても、こういったタイプのハイカラな西洋館は、下落合のあちらこちらで建てられている。もちろん、あめりか屋や箱根土地建築部Click!のような西洋館専門の建設会社による施工も多いが、器用な日本の大工が見よう見まねで建ててしまう西洋館も少なくなかった。佐伯アトリエは、土地がら西洋館の施工に慣れていたと思われる、明治初期から別荘地として発達した大磯Click!の大工が手がけている。巨大な西洋館だった大島子爵邸Click!の建つ七曲坂の周辺にも、このような洋館や和洋折衷の文化住宅が散在していた。1923年(大正12)に建てられた川澄良重邸も、まるで高原のロッジのようなシャレた趣きをしている。もともと下落合は、明治期から東京郊外の別荘地として拓けた土地がらなので、別荘風の建築も数多かった。また、目白文化村や近衛町、アビラ村などにも、ポーチ付きのバンガローデザインClick!の住宅が数多く建てられている。
 川澄邸を拝見すると、そのような時代の特徴が顕著に表れている。なによりも目が惹きつけられるのは、南に向いた切妻から2階の窓上にかけての木彫デザインだ。大小さまざまな四角形を組み合わせた独特な意匠をしており、エントランスに立った訪問客は、まずこの切妻から窓辺にかけての装飾に見とれたことだろう。そして、川澄邸がより特徴的なのは外壁の仕様だ。当時は非常に一般的だった下見板張りの工法を採用しているのだけれど、南側に面した邸正面の壁面は板ではなく、まるで高原ロッジのように丸太を組み合わせて仕上げてある。さらに、屋根の骨格や梁などの素材も角材や板を使用せずに、すべて上等な丸太がそのまま使用されているのがとてもめずらしい。
 
 屋根は、重たい瓦を用いずに薄くて軽い鉄板を組み合わせて葺いたもので、カラーは赤で塗られていた。外壁はかなり濃いめのこげ茶色で、オリジナルデザインの切妻や軒下、あえて横の桟を入れずタテに細長いスマートな窓枠やバルコニーなどが、クッキリと純白に塗られており、背後に見えている緑ゆたかな森の色合いとの絶妙なカラーバランスを見せている。玄関の軒下には、直径30cmほどの球体の玄関灯が下がっており、玄関扉はドアではなく白い引き戸なのもたいへんめずらしい意匠だ。川澄様は、すでに建っていたこの邸を購入されているので、施工者の詳細はご存じないが、姿は西洋館であるにもかかわらず、あちこちに和の意匠が感じられるところから、おそらく洋風建築が得意な大工が建てた、大正期のオシャレな作品ではないだろうか。ちょうど、三ノ坂から四ノ坂にかけて昭和初期、島津家Click!によって開発されたハイカラな50軒ほどの住宅街Click!が、中井駅前の大工・高橋清次郎によって建てられたのと同様のケースなのかもしれない。
 目白崖線の斜面から崖下(バッケ下)にかけては、神田川から妙正寺川の沿岸で操業していた中小の工場を目標とする、1945年(昭和20)4月13日のB29による空襲Click!でも、川からはやや距離があったために川澄邸は延焼をまぬがれた。また、同年の5月25日の山手空襲Click!でも、丘上に建っていた下落合の住宅街が広範囲に爆撃され、甚大な被害をこうむっているにもかかわらず、崖線斜面から崖下にかけては類焼をまぬがれている。1947年(昭和22)に、米軍が爆撃効果測定用として撮影した鮮明な空中写真を見ると、下落合では濃い樹木の近くや屋敷林に囲まれたエリアClick!が、空襲による火災から守られていたことがわかる。川澄邸も、特に北側が濃いグリーンベルトで覆われていたため、二度にわたる空襲の被害を受けずに済んでいる。
 
 川澄邸は、新宿区教育委員会が1985年(昭和60)に出版した『地図に見る新宿区の移り変わり-戸塚・落合編-』の巻末に収められた、藤森照信・著の「落合における高級住宅街の成立」Click!でも言及されており、大正期に建てられた下落合の洋風住宅の面影を色濃く伝える建築として紹介されている。1923年(大正12)の大震災をはさんで建てられた川澄邸は、当初は別荘風住宅として設計され、屋根はバーミリオンあるいはオレンジの瓦で葺かれる予定だったのかもしれないが、震災を挟んで瓦から薄い鉄板を打ちつける屋根へと変更されている可能性が高い。
 ここに掲載した川澄邸の写真は、1979年(昭和54)に撮影されたもので、翌々1981年(昭和56)には老朽化のために残念ながら解体されている。暮れのお忙しい時期にもかかわらず、貴重な邸写真をお貸しくださり、ありがとうございました。>川澄様

■写真上:1979年(昭和54)に撮影された、背後の濃い緑に映える大正建築の川澄良重邸。
■写真中上:訪問者の目を惹きつける、切妻から軒下にかけての独特な彫刻デザイン。
■写真中下:下見板張りではなく、丸太を組んだ高原ロッジのような風情の梁や正面外壁。
■写真下:左は、南側から見た川澄邸の正面全景。右は、1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真にみる、濃い緑に囲まれて延焼をまぬがれた川澄邸。