氷川明神社の前にあった旧・下落合駅Click!について、非常に貴重な目撃情報をいただいた。西武電気鉄道が開業当初、いまだ山手線の西側にあった高田馬場仮駅Click!にさえ通じてはおらず(敷設工事が間に合わず)、下落合駅が終点だったことを示唆する貴重な証言だ。それは、下落合駅に設置された電車の上り下りを入れ替える「折り返しの場」が設置されていたこと。そして、その「折り返しの場」から前夜終電で到着した車輌が、「折り返し場」でポイントを切り替え、始発電車として下り方面へと出発していたことだ。
 貴重な情報をお話くださったのは、旧・下落合駅の近くに住む杉森一雄様だ。氷川明神の前に下落合駅ができたころ、周囲一帯には麦畑が随所に拡がり、田島橋Click!から大きく北へと蛇行した神田川の先には水車がまわる、まるで明治期の早稲田田圃を想起させるような風情だった。杉森様が旧・下落合駅の付近で遊んだのは、氷川明神の近くに親戚が住まわれていたからだ。ほどなく杉森家も、省線・高田馬場駅前の諏訪町(西原)から下落合へ転居してくることになる。
 この「折り返しの場」は、旧・下落合のどこにあったのだろうか? 駅名が「下落合」と決定する以前に作成された設計図Click!を見ると、駅の南東側に引き込み線が設けられている様子がわかる。また、1926年(大正15)に作成された、いまだ駅の存在が記載されておらず、西武電鉄の線路だけが記入された「下落合事情明細図」を確認すると、ちょうど駅の南東側には住民名の記載がない空き地、あるいは元・畑地と思われるスペースがあるのがわかる。電車の上り下りを入れ替える「折り返しの場」は、この位置にあったと思われる。
 
 わたしは当初、「折り返しの場」はバスの向きを変えるために車庫へ設置されたターンテーブルClick!のように、かなり広いスペースを必要としたのではないか・・・と想像していた。これは、現在の電車の仕様を前提とした想定だったのだけれど、大きな誤りであることがわかった。当初、西武電鉄は利用客もまだ少なく、たった1輌編成だったことはすでに知っていた。そして、電車の運転席は車輌のどちらか端にあり、上下線の向きを変えるにはターンテーブル状のものが必要となるか、あるいは向きを変える必要がなく、ターンテーブルが存在しないのであれば、コスト的には高くなるけれど運転席が車輌の前後に設置されていたのだろう・・・と、漠然と想像していた。ところが、わたしの想像はふたつともちがっていたのだ。
 旧・下落合駅の「折り返し場」である引き込み線から、前夜入線した上り車輌を翌朝、下り電車として出発させるのに、電車の向きなどまったく気にする必要はなかったのだ。線路のポイントを切り替えるだけで、電車は上り電車にも下り電車にもなった。なぜなら、堀尾慶治様Click!によれば、開設当初の西武電鉄は、運転席が車輌の中央片側に設置されており、運転手が走行する向きによって身体を前後に入れ替えるだけで、上下どちらの側へも走行できたからだ。※ この方式だと、車輌が混雑しているときは前が見えないため、まるで蒸気機関車の運転手のように、横の窓からときどき顔を出しては前方を確認していたのだろう。
 
 杉森様によれば、氷川明神の前にあった旧・下落合駅には、今日のような改札口がなかったように思う・・・とのことだ。おそらく、戦前の市電やバスと同様、車内の車掌が行き先ごとに切符を販売していたのであり、乗車切符を検札する改札口は必要なかったのだろう。また、もうひとつ重要な目撃証言もいただいた。旧・下落合駅から東へ延びる工事中の線路について、現在の線路と同じ位置に延びていたと思う・・・ということ。これは、杉森様も横尾様も一致したご記憶だ。つまり、山手線の下をぶち抜いて高田馬場駅までが開通する以前、高田馬場仮駅へと向かう線路は、現状線路の位置のまま東へと進み、山手線の線路土手が近くなる地点から急激に右へとカーヴし、清水川にあった高田馬場仮駅へと通じていた可能性が高い。換言すれば、1929年(昭和4)の「帝都復興東京市全図」Click!に描かれた、おそらく前年の様子を記録したと思われる表現、つまり旧・下落合駅あたりから線路が斜めに敷かれ、清水川の高田馬場仮駅へと向かっている記載は誤りであり、1928年(昭和3)ごろに制作された「鉄道地図」の表現が正しいということになる。
 なお、残念ながら高田馬場仮駅のご記憶はなかった。旧・下落合駅から高田馬場仮駅までは、わずか200m前後の距離であり、わざわざ電車が来るのを駅で待っているよりは、省線・高田馬場駅か目白駅へ歩いたほうが早いからだ。これは杉森様に限らず、旧・下落合の東部に住んでいた住民のみなさんには共通する感覚だったろう。
※その後の取材で、高田馬場仮駅は山手線土手の東側にももうひとつ設置されていることが判明した。地元の住民は、「高田馬場駅の三段跳び」Click!として記憶している。

 
 面白いお話もうかがった。当時、旧・下落合駅の周辺には、工事のためのトロッコ線が敷かれており、作業員たちが引き上げたあとの夕方など、トロッコを停車所から持ち出しては友だちと遊んでいたそうだ。これらのトロッコは、おもに土砂を運ぶために敷設されたもので、今日のようにトラックがない当時は、工事で出た土砂を馬車やトロッコに積んで運搬していた。住宅地の造成でも、埋め立てなどの工事の際にはトロッコ線が敷設されており、目白文化村Click!でも第一文化村から第二文化村にかけて、敷設されていたトロッコ線を記憶されている方がいる。

■写真上:下落合の目白崖線下を走る、西武新宿線の現状。
■写真中上:左は、旧・下落合駅から「折り返しの場」引き込み線があったあたりの現状。右は、1930年(昭和5)の早稲田・新井1/10,000地形図にみる氷川明神社前の下落合駅と周辺。
■写真中下:左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「折り返しの場」があったあたりの空き地。右は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる同所。
■写真下:上は、2種の地図に記載された高田馬場仮駅の位置と臨時線路の想定図。下左は、1900年(明治33)ごろ撮られた早稲田田圃の水車。下右は、古写真にみるトロッコとその軌道。

※西武電鉄の最初期車両(再取材)
1927年(昭和2)の4月、「西武電車」の名称で首都圏の主要新聞に「郊外花見」開通広告を出稿した西武電鉄(現・西武新宿線)だが、当初は下落合が始発・終点だった。下落合駅に“折り返しの場”が設けられていた当初、導入されていた車両の構造が詳しく判明したのでご報告したい。上記の記事に書いた車両の様子は、わたしが堀尾様から聞き書きをして解釈したものだが、車両については大きな解釈違い=誤認があったので、改めて訂正したい。
今回は作図をし、改めて確認させていただいたところ、運転席が中央にあったというのは車両の長さに対する中央ではなく、車両の幅に対する中央部という意味で話されていたことがわかった。つまり、現在の車両のように、運転席が車両幅の片側に寄っているのではなく、中央に設置されていたという意味だ。したがって、運転席は車両の両端に設置されており、進行方向がどちらであっても運転手が運転席を前後に替わるだけで、電車は自在に「前」へも「後ろ」へも運転できた。この構造により、引き込み線へ前夜入れた車両は、別にターンテーブルなどの必要もなく、翌朝そのまま前後の運転席を替えるだけですぐに発進できた・・・というしだいだ。
したがって、上記の記事はわたしの解釈間違いから生じたものであり、コメントでご指摘いただいたKHさんの車両情報が正しいことになる。ご指摘、ありがとうございました。>KHさん