1930年協会Click!を創立したひとり、小島善太郎Click!は生粋の地元・新宿っ子だ。淀橋で生まれ、1903年(明治36)に台風による大風で校舎が倒壊し多くの死傷者を出した、いまに語り継がれる淀橋小学校の遭難時にちょうど在学していた。その後、家庭の事情から下町の醤油屋へ丁稚奉公に出るのだけれど、少年期から青年期にかけての生活は悲惨きわまりない。
 酒乱の父親は、野菜の仲買いで当初は羽振りがよかったものの徐々に没落し、最後には足にケガをして動けなくなり家は極貧に陥る。自宅も淀橋から牛込、そして先祖の墓のある下落合へと、現在の新宿区内を転々とし、下落合では畑の畦道に落ちているクズ野菜まで拾って食べるような困窮生活だった。この間、遊び好きな兄は自宅の売り上げを盗んでは行方不明となり、妹は奉公先で男にだまされ誘拐されて殺害され、その後、間もなく父母を相次いで失っている。この時代のことを、小島はのちの自著で「煉獄の道」とも「苦悩時代」とも記している。
 新宿地域を転々とし、落合地域では同じエリアで何度か引っ越しもしているのだけれど、小島は自宅の住所をいっさい記述していないので、それがどのあたりなのかをピンポイントで特定できない。1968年(昭和43)に出版された『若き日の自画像』(雪華社)の表現から、どうやら小島の実家は目白崖線の斜面か丘上にあったらしい。寺の墓地ではなく、畑地が拡がる丘上のどこかに先祖代々の墓地が建立されており、自宅ともども下落合の高台にあった公算が高い。そして、小島の文章のあちこちには、明治末から大正初期の下落合風景が繰り返し登場してくる。
 明治時代のローカル表現なのか、あるいは小島独自の個人的な愛称なのか、彼は神田上水や妙正寺川のことを区別せず、総じて「落合川」と呼んでいる。妙正寺川のことを「落合川」と呼んだ、林芙美子Click!以来ふたりめの呼称でめずらしい。当時、関口の大堰(椿山荘付近)から下流は、いまだ神田川ではなく「江戸川」と呼ばれていた時代だ。また、「落合橋」という呼称も出てくるけれど、これがどの橋を指しているのかイマイチはっきりしない。明治の末ごろ、下落合の神田上水や妙正寺川には、わずか5つの橋しか架けられていなかった。東から西へ、田島橋Click!、西ノ橋Click!、寺斉橋Click!、バッケ堰(堰上橋)Click!、そして水車橋の5橋だ。
 
 ちなみに、江戸期には「落合土橋」という表現がみられるのだが、これが現在のどの橋を指しているのかも曖昧だ。幕末に作成された「落合村絵図」では、田島橋、西ノ橋、そして寺斉橋の前身である土橋の3橋しか収録されていない。もちろん、補助45号線(聖母坂)の造成とともに、西ノ橋の西隣りへ設置された昭和初期の「落合橋」のことではない。では、小島善太郎が記録した明治末の下落合風景を、前掲の『若き日の自画像』(雪華社)から引用してみよう。
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 落合橋を川に沿うて三、四丁上った所に水車場が在った。朽ちかけた横長の家だった。その中央を割った暗い中から水を垂らした大きな水車が絶えず廻っている。輪の板に苔が生えて湿った感じの上を水が乗って来ては落ちる。その度びに焦褐色をした水車に黄ばんだ濃い苔の上を水が白く光って滑る。木小屋の中では杵搗く音が絶えず、側で見てると水車が生きて感じられて面白く、数回来ては写生をした。
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 「落合橋」から、川上へ300~400mほど歩いたところに水車場が設置されているのがわかる。当時、下落合エリアの神田上水と妙正寺川には、3つの水車場が記録されている。ひとつは、田島橋から大きく北へ蛇行する神田上水を、川沿いに200mほどさかのぼったところにあった水車場。この水車場のあたりは、昭和に入って神田川の整流化(直線化)工事の際、戸塚町と落合町との間で地境争いが発生した場所だ。下落合に古くから住む杉森一雄様Click!によれば、田島橋から三越染物工場前を通り水車場へと向かう途中には、イチョウの巨木が生えていたらしい。
 
 もうひとつの水車は、寺斉橋から妙正寺川に沿って西へ300mほど上った、バッケ堰から150mほど下流に設置されていた水車場、そして下落合西端の水車橋から北へ50mほど入った、妙正寺川の支流に設置された水車場の3つだ。中井御霊社の南下、水車橋近くの水車は小島の記述と明らかに合わないので除外するとして、「落合橋」と記述している橋は、はたして田島橋と寺斉橋のどちらのことだろうか? 引きつづき、小島の文章を引用してみよう。
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 水車場の西に六、七丈の丘があって、高台に樫の林があり、傍から茶畑が続いて、茶畑の間に柿の木があった。曇った日の暮れ方だった。霜を受けた柿の丸葉を黄赭に染めて煤んだ草の上に明るく落ち重なっていた。此処に佇んで眼前に展がった戸山ヶ原を見渡した。若杉の林や樫に挟まれた檪林は色付き欅は葉を落とし始め、それが原の入口を囲んでいた。視界を下にすると、裾を落合川が帯を投げたようにうねっては流れ、眼下に水車場の屋根が搗粉で白く染めて見せている。近くの枝に止まった鵙(もず)が慌ただしく甲高な声をして鳴いて静寂を破る。
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 田島橋の西に丘はないが、寺斉橋の西には目白崖線が張り出し気味に見えている。また、丘上からの眺めで戸山ヶ原が拡がっている様子は、目白崖線の山手線寄り=下落合東部を連想するけれど、佐伯祐三Click!が描く大正末の二ノ坂(蘭塔坂)Click!や同坂の上Click!からでさえ、早稲田方面や新宿一帯が見渡せるのを考慮すれば、その手前に存在する戸山ヶ原の風景は、下落合西部(現・中井2丁目)からの眺めと解釈しても不自然ではない。そして、なによりも特徴的なのは茶畑の存在だ。田島橋近くの水車場の北側斜面に茶畑は存在しないが、1910年(明治43)現在の新井1/10,000地形図には寺斉橋近くの水車場の北北西に、はっきりと茶畑が採録されている。
 
 小島善太郎の当初の自宅は、のちにアビラ村Click!とも芸術村とも呼ばれるようになる、下落合西部(現・中井2丁目)の目白崖線中腹あるいは丘上にあったと思われるのだ。

■写真上:下落合に通う坂道の可能性がある、1920年(大正9)に描かれた小島善太郎『坂道』。
■写真中上:左は、1910年(明治43)現在の早稲田1/10,000地形図に掲載された田島橋近くの水車場。右は、同年の新井1/10,000地形図に掲載された寺斉橋近くの水車場。
■写真中下:左は、1913年(大正2)に制作された小島善太郎『目白駅より高田馬場望む』。右は、1968年(昭和43)に雪華社から出版された小島善太郎『若き日の自画像』。
■写真下:左は、ちょうど明治期に水車場があったあたりの妙正寺川の現状。ふられた地番は上落合(三輪)850番地界隈で、のちに尾崎翠Click!や林芙美子Click!が暮らした借家が建っていたあたりに相当する。右は、大正末から昭和初期ごろに撮影された神田上水(神田川)。