1930年協会Click!の小島善太郎Click!は、大久保に住む陸軍大将・中村覚邸の書生になることで、下落合の極貧生活から脱している。そのころには、兄は行方不明ままで妹は殺害され、父母は相前後して病没し、残るのは奉公に出ている弟のみという家族構成になっていた。小島は、大久保の中村邸から谷中にあった太平洋画会研究所Click!へと通いはじめている。
 研究所へは、1910年(明治43)ごろから通学するようになったが、このとき研究所にはデッサンを勉強するひとりの「王者」がいた。この「王者」は、のちに病状が進むにつれて傲慢な性格は薄れていくようだけれど、当時はかなり我が強かったようで、研究所ではデッサンの空間を2人ぶん占領しながら描いていた。下落合へアトリエを建てる6年ほど前の、中村彝Click!の姿だ。1968年(昭和43)に出版された『若き日の自画像』(雪華社)から、少し長いが引用してみよう。
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 研究所に一人の王者がいた。中村彝であった。私服の上に白いブルーズを着、その下から長い袴を窺かせた大男で、顔に一種の光沢を持った皮膚の白い額に、房々とした頭髪を乱した儘に垂らして、その飾らぬ風采は一見山男にも似た素朴さであった。その上、不潔な廊下を上草履も穿かず素足のままで歩いていた。/モデルのポーズの時間が来ると、彼も皆と一緒に描き続けていたのであるが、彼の描く動作は一山鳴動する----とでも云った風で、描く時には立った儘凝っとモデルを靜視していた。画面に賦色した時は一気に筆を描き下ろした時で、一度筆を加えた以上、彼は画面に賦色した上を捏ねるような事をしなかった。筆を下ろした直後、約一時間以上調子を見るため後ずさった。大男の彼が両脚を踏張った丈で一間以上は取っていた。後へ退った時はそれ以上をとるので、彼一人で二人分の場所を占有した。併し彼の緊張した動作のため皆は圧迫された感で苦情を申し出る者は無かった。
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 小島は、身長が150cm前後とたいへん小柄だったので、当時の男性としては上背があった中村彝が、ことさらそびえるような「大男」に感じられたのだろう。この文章は、中村彝が太平洋画会研究所でデッサンをする姿を記録した、たいへん貴重な証言だ。
 
 面白いのは、筆を下ろした直後、画面からやや離れて1時間以上もモチーフ(モデル)と線とをジッと仁王立ちして観察している様子だ。もうひとりのデッサンの「王者」、東京美術学校でデッサンのフェーズからなかなか離れたがらなかった佐伯祐三Click!は、どのような姿でモチーフを追いかけていたのだろうか? きっと佐伯のことだから、ためらうことなく猛スピードでデッサンを仕上げていったような気がするのだが・・・。1時間以上も、画面とモチーフを交互に見つめつづける中村彝とは、対照的な制作姿勢だったような気がしてならない。
 小島善太郎は、中村大将邸の息子に連れられて、新宿中村屋Click!で行われていた岡田虎二郎Click!の静坐会Click!へも顔を出している。小島は、それほど静坐には惹かれなかったようだけれど、中村屋裏に建っていた柳敬助Click!のアトリエ(のち中村彝のアトリエ)や、荻原守衛Click!の碌山館は何度か訪ねている。再び少し長いが、貴重な証言なので引用してみたい。
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 相馬という名刺を貰い、眼鏡の下に鼻髭を生やし、角ばった顔の相馬氏が部屋の壁に掛けてあった中村彝の油絵、房州海岸の丘Click!(二十五号程)の作を指して、/「これは、家内が希望して譲って貰ったのですが、中村さんは才子多病でお気の毒です」と云った。反対の壁には五十号位の油絵で、女史の病床にある像が掛けてあり、側で女史が、/「柳敬助さんにお願いして、病気でそのまま起きてないと思いましてねェ、妾を描いてお貰いしたのですよ」/此の作は文展で見た事を想い出した。その上には、八号位の母子像Click!が掛けてある。/「あれですか? あれは亡くなった緑山(ママ)(故荻原守衛)が、これも死にましたが、その子供を妾が抱えている所を描いてやろう----そう申されまして、一気に描いたものなのです」
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 そして、小島は中村屋裏にあった柳敬助のアトリエをほどなく訪ね、中村彝と出くわしている。
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 階下で呼び鈴を押して待つと階段に重い音がして、太いビロードのズボンに黒いジャケットを着た四十前後の、頭髪をふり乱した敬助氏が降りて見えた。/「どうぞ・・・・・・」と階段の中ほどから僕に向かって云われた。階段には絨毯が敷かれ、氏に従って二階に上がるとそこが洋間で、洋風の飾り物が落着いた色彩りで巴里の室内もかくやと思わせる。中央寄りわずか片寄った所にストーブがあり、その傍で三十前後の和服を着た二人の男が椅子に掛けて語っていた。一人は研究所で見ていた中村彝氏であった。デッサンを見て貰ったことがある。柳氏が紹介してくれた。/「僕は高村です」と飾り気無く一人が名乗った。光太郎氏なのであった。(中略) 「光太郎君の作ですよ、明るい仕事でしょう」 夏の庭先が水々しく軽快に描かれてある。彝氏は眸をその絵に向け、当の光太郎氏も振り向いて自作を一瞥した。(中略) 此等の作を見ていると自分の作が気になって来て、そこで柳氏に、「実は初めて風景画を描いているのです。一度批評してお貰いしたいのですが・・・・・・どうしても、描けないで苦心しているのです」と申し出た。すると、/「何時でもよろしい、持ってらっしゃい。見せて貰いましょう」
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 中村彝が、柳敬助の転居したあと、新宿中村屋裏のアトリエに引っ越してくる直前の様子をとらえていると思われる。おそらく、高村光太郎が持参した何点かの滞欧作を眺めながら、3人で“批評会”を開いていたものだろう。このとき、小島が「一度批評してお貰いしたいのです」と言っている風景画は、おそらく「戸山ヶ原風景」か「落合風景」のいずれかだろう。
 
 小島は、作品が思うように描けないと、その絵を写生場所へ棄ててくるクセがあった。戸山ヶ原Click!では、何枚かのキャンバスを棄てたことを小島は自著で語っている。パリ近郊のクラマールでも、小島は描いた絵を棄ててきたので、小島アトリエの隣りの「化け猫」アトリエClick!を紹介された佐伯祐三が気づき、日本へと持ち帰って律儀に本人へ手渡しているようだ。

■写真上:小島善太郎が研究所で、彝と出会う少し前に描かれた中村彝『裸婦習作』(1908年)。
■写真中上:左は、フランスへと向かう船上で撮影された1922年(大正11)の小島善太郎。右は、1909年(明治42)に制作された中村彝『自画像』。
■写真中下:左は、新宿中村屋で撮影された柳敬助。右は、中村屋では巨大フナムシを飼ってるのかと思ったら、大正時代に焼かれたディスプレイ用の巨大ロシアパン。(爆!)
■写真下:左は、なんとか棄てられないで現存している1911年(明治44)制作の小島善太郎『戸山ヶ原風景』。右は、ほぼ同じころに撮影された明治末の戸山ヶ原。