「佐伯祐三-下落合の風景-」展Click!の図録は校正フェーズ、すなわち最終段階に入った。カラー出力の校正紙や束(つか)見本が印刷所からとどき、いろいろと“赤入れ”を美術家の方とともに進め、新宿歴史博物館Click!へご面倒な修正をお願いする。最終的には、歴博の学芸員の方が全体をまとめられるので、どこまで追加の原稿や“赤入れ”などが反映されるかわからないけれど、昨年暮れからつづいていた図録づくりのお手伝いは、ひとまず終了だ。
 この図録の中に、「なぜ下落合の風景なのか?」というテーマページが存在している。佐伯祐三Click!がモチーフに選んだ下落合の風景と、モチーフに選ばなかった風景との間には、どのような相違があるのか?・・・というのがコラムの趣旨だ。『下落合風景』シリーズClick!を裏返せば、このシリーズ作品が描かれたのと同時期に、落合地域にはどのような街並みが広がり、どのような建築群が存在して、佐伯はそれらを意図的に避けて選ばず描かなかったのか?・・・ということになる。
 図録の誌面では、ページ数の限界から写真掲載には限りがあるし、また大正期から昭和初期に雑誌などへ掲載された写真類を掲載できなかったので、ここでモチーフに“選ばれなかった風景”をまとめてご紹介しておこうと思う。それには、佐伯が描かなかったモチーフを言葉ではなく、ビジュアルで見ていただいたほうが手っとり早いと考えた。
■下落合東部(現・下落合地域)
  
  
    
 まずは、明治期から大正期にかけて建てられつづけた、華族の大きな邸宅群(あるいは別荘群)がある。近衛篤麿・文麿が住んだ近衛邸(佐伯の時代は近衛新邸)、御留山の相馬邸、七曲坂の大島邸、西坂の徳川邸、その南側の川村邸、六天坂の津軽邸、そして目白通りの向かいには戸田邸(のち尾張徳川邸)などが代表的で、これらの邸宅は下落合の東部に多い。また、商店街が形成されはじめていた目白通り沿いには、大震災後に建てられた石造りあるいはコンクリート造りのビルや市場、店舗、また目立つ大きめな施設としては目白聖公会、目白福音教会、少し離れてレンガ造りの箱根土地本社(佐伯の時代は中央生命保険倶楽部)、落合尋常小学校などが建っていたけれど、落合地域に住んだ多くの画家たちとは異なり、佐伯はこれらをモチーフに選んでいない。
 大正末から昭和初期にかけ、神田川沿いや妙正寺川沿いには規模の大きな工場も建てられている。指田製綿、正久刃物、石倉製綿、共同印刷、池田化学、三越染物、東京護謨(ゴム)、オリエンタル写真などの工場群がそれだが、佐伯はこれら川沿いの工場街風景も捉えてはいない。
 下落合の街並みでいえば、明治末から大正期にかけて、おもに目白通りの南側に連続して建てられつづけた、大きな邸宅の多い「落合府営住宅」の家並み、1922年(大正11)に近衛旧邸の広大な敷地を東京土地住宅が開発し、大正末にはすでに最先端のコンクリート造りの西洋館さえ出現していた「近衛町」Click!の風情、1922年(大正11)に箱根土地によって開発が始まり、当時の東京では洗足田園都市Click!とともにもっともハイカラでモダンな街並みだった「目白文化村」Click!の異様、芸術家や実業家などが大きな西洋館を建てて住んだ、下落合西部の「アビラ村」Click!(高群逸枝によれば「芸術村」Click!)などの特異な光景も、佐伯はほとんど、あるいはまったく写してはいない。
■目白文化村
  
  

 わたしはそれを当初、佐伯の特異な審美眼と、パリのうらぶれた裏町での仕事に多くみられる「美醜の反転」現象というような単純な見方でとらえていたが、今回の図録作りでパートナーをお願いした美術家の方も指摘されているように、それだけでは作品全体を包括して説明できないほど、さまざまな『下落合風景』のバリエーションが存在している。通常は、「絵になる」風景といわれるような街角を外し、一般的には「絵にならない」といわれるような下落合の区画を選んで数多く描きつづけた佐伯には、作品の風景モチーフをめぐるより多角的で強いテーマ性が感じられるのだ。
 換言すれば、なんら興味もテーマ性も見いだせない絵を、画家(佐伯)が大量に制作するはずがない・・・という、大前提となるあたりまえの事実へと帰着することにもなる。ちなみに、佐伯の描く『下落合風景』は、従来言われるような30点余どころではない。わたしの個人的な感触では、全国に散ったそれらは、おそらく100点を超えているのではないかと思われる。そのあたり、アトリエにおける画布作りの様子や製作点数についても、図録の中でテーマのひとつとして取り上げている。
 「日本の風景は絵にならん」という自身の言葉と、二度にわたる渡仏の間にはさまれたため、“谷間”作品と捉えられがちだった佐伯の下落合での仕事だが、この展覧会をきっかけにもう一度、『下落合風景』の全体像を見直すきっかけになってくれれば嬉しいかぎりだ。そして、日本各地にまだまだ眠っているかもしれない、新たな『下落合風景』の発見につながればとも思うのだ。
■アビラ村(芸術村)
  
■etc.
 
 中村彝Click!に師事し、このサイトでも名前が登場している洋画家・二瓶等(徳松)Click!だけれど、彼が彝と非常に親しくその作品を所蔵していること、また東京美術学校では佐伯祐三と同級だったことはあまり知られていない。二瓶は、中村彝アトリエClick!と曾宮一念アトリエClick!のちょうど中間地点、下落合584番地に佐伯よりも早くからアトリエを建てている。その二瓶等が、佐伯が描かなかった下落合風景ばかりを選んで描いているようなのだが、それはまた、別の物語・・・。
 さて、佐伯展のオープニングと内覧会が、前日の金曜日のお昼すぎから行われるのだが、わたしは前々から予定されていた年度末の仕事がどうしても抜けられず、やむなく欠席せざるをえなくなってしまった。『下落合風景』を静かにじっくり眺めようと思っていたのに、ちょっと残念だ。

■写真上:「佐伯祐三-下落合の風景-」展図録のカラー校正紙(左)と束見本(右)。
■写真中・下:佐伯祐三が描かなかった、同時代の下落合風景いろいろ。もっとも、2010年現在で判明している『下落合風景』が前提なので、これから発見されるかもしれない未知の『下落合風景』には、これらをモチーフにした作品があるのかもしれない。ちなみに、非公開のお約束で把握している『下落合風景』にも、このようなモチーフは選ばれていない。