きょうは、ちょっと不思議なお話をしたいと思う。わたしが、このサイトでときどき「出前地図」Click!と呼んで掲載している地図がある。同図の正式名称は、「下落合及長崎一部案内」図というのだけれど、タイトルどおり目白通りをはさんだ両側の、下落合と長崎のほんの一部しか紹介されていない地図だ。長崎側が手前にくる、つまり南北が逆さまなのも見づらいのだが、目白通りを中心に作成されているので、必然的に商店街とその周囲に建っている住宅が中心の記載となる。だから、商店街の出前や御用聞きには便利だったと思われるので、通称「出前地図」と表現してきた。
 描かれた道筋や、家々の位置、記載された住民名を細かく観察していくと、非常に大雑把でいい加減に作られているところもあるのだが、大正期の住民名が収録された地図は貴重なので、これまで何度か活用させてもらってきた。「下落合及長崎一部案内」図は、真ん中の地図の部分はときどき資料で見かけるのだが、周囲の広告部まで含めた全体図を見たことがなかった。このたび、広告部を含む全体図のコピーを入手したので改めて仔細に観察したところ、「大正十四年一月十七日」という発行年月日がハッキリした。「下落合事情明細図」が作成される前年、やはり1925年(大正14)だったのだ。そして、同地図には改訂や追補の記載が見あたらない。
 わたしは、この地図は昭和期に入ってからも何度か追補がつづけられたと思っていたのだが、改めて原図を見る限り、重ねて改訂が加えられた様子がない。すなわち、1925年(大正14)1月現在、実質は落合町が成立した当時の1924年(大正13)現在の下落合と長崎の一部街並みをとらえた地図だと思われる。ということは、ここに大きく記載されている「下落合一丁目」から「下落合四丁目」までの表示は、大正期の当時から用いられていたことになる。

 
 下落合の住所表示に、1丁目から5丁目までの「丁目」表記が“公式”に付与されたのは、1932年(昭和7)に淀橋区が成立してからあとのはずだった。落合町がなくなる間際、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』にも、住所に「丁目」表示は記載されていない。ところが、それ以前の地図、たとえばやはり改訂が行なわれなかったとみられる、翌年発行の「下落合事情明細図」Click!(1926年)にも、すでに目白通り沿いには控えめにだが、下落合「一丁目」から「四丁目」までの「丁目」表示がハッキリ記載されている。ただし、「五丁目」は記載されていない。
 また当時、下落合で暮らしていた住民の書簡類にも、住所に「丁目」が記載されていることがまれにあり、それも不可解で悩みのタネとなっていた。大正期の住居表示に「丁目」が付いている記述にぶつかると、後世の住所表示との混同、あるいは記載自体の時期解釈のズレとして、あまり深く突っこまずに見すごしてきた。一例を挙げると、前田寛治Click!は1926年(大正15)に下落合1560番地へ一時住んでいるのだが、1930年協会展第1回展の出品目録には「下落合四-一五六〇」と書かれていた。公式には「丁目」など存在しないはずの当時、なぜ前田は下落合1560番地が、のちの下落合4丁目(現・中落合3丁目)のエリアに相当することを知っていたのだろうか?・・・というのが、大正期の下落合「丁目」表示をめぐるミステリーということになる。ちなみに前田寛治は、正式に下落合へ「丁目」がふられる2年前、1930年(昭和5)に病没している。
 
 
  
   
   
 結論から先にいえば、大正期の「丁目」表示は目白通りを中心に、広い下落合地域をエリア分けする、地元で慣例的に使われていた住所表示ではないだろうか? それは、この地図が東は目白通り沿い、下落合1丁目の郵便局にはじまり、西は下落合4丁目の郵便局で終わっているところをみても示唆的なのだ。関東大震災Click!の直後から住宅建設ラッシュClick!がつづく下落合で、郵便局が配達をスピーディにこなすために、配達エリアを便宜上「丁目」で独自に区切って、郵便物の仕分け作業を効率化していたのではないか?・・・という推測だ。
 そして、当時は御用聞きや出前が不可欠だった目白通りの商店街が、郵便局のエリア呼称とタイアップするかたちで、「下落合及長崎一部案内」図を発行したのではないかということ。これは、翌年(1926年)に作成される、「下落合事情明細図」にも踏襲された。直接の発行元は、高田町にあった「地理図案研究所」というところだが、目白通り沿いの商店街や郵便局を中心とした視点で、明らかに「下落合及長崎一部案内」は作成されている。新宿区教育委員会が1985年(昭和60)に出版した、『地図で見る新宿区の移り変わり-戸塚・落合編-』にも同図は収録されているけれど、図面の地図部のみで全体ではない。ただし、当初は赤と黒の2色で刷られた様子がうかがえる。
 
 前田寛治が、1926年(大正15)に住んだ下落合1560番地は、目白通りからわずかに南へと入った、下落合1559番地に建っていた落合医院のすぐ南あたりの地番だ。目白通りに近いエリアでは、「下落合及長崎一部案内」図へ掲載された商店広告にも見られるとおり、すでに「丁目」が住民あるいは商店の間に普及し、一般的に使われ出していたのかもしれない。そして、当時の前田は大家や近隣から、住居が4丁目であることを聞いて知っていたか、「下落合及長崎一部案内」図または「下落合事情明細図」を入手しており、自身の下落合1560番地が「下落合4丁目」に相当することを、すでに知っていた可能性が非常に高い。

■写真上:「下落合及長崎一部案内」図の当時と変わらず、いまも営業をつづける「福の湯」。
■写真中上:上は、「下落合及長崎一部案内」図にみる「福の湯」界隈の拡大。「木村横町」と記されているところが、現在の目白通りから聖母坂への入口あたり。すでに、和菓子「桝田や」さんの記載も見える。下左は、制作年月日の記載。下右は、同図西端の下落合4丁目郵便局。
■写真中下:同図に掲載された商店広告のいろいろで、すべてに「丁目」表示が入っている。
■写真下:左は、下落合4丁目1560番地に住んだ前田寛治。右は、同地番あたりの現状。