佐伯祐三Click!の『下落合風景』シリーズClick!の1作、「アビラ村の道」Click!にもその名が記録されており、また金山平三Click!が出した下落合への転居通知、島津家Click!に残る同邸への道案内図、炭谷太郎様にお送りいただいた「阿比良村平面図」Click!などにもその名が登場しているアビラ村(阿比良村)について、ようやく詳しい成立事情が判明した。資料を探してくださったのは、以前にアビラ村についてコメントをお寄せくださった、ものたがひさんだ。
 アビラ村の詳細が掲載されていたのは、1922年(大正11)6月10日に発行された読売新聞だ。しかも、アビラ村は当初から別名「芸術村」とも呼ばれていたことが、記事の内容からもうかがえる。すなわち、のちに高群逸枝が下落合の「熊本村」Click!で、一帯は芸術村とも呼ばれていたと著作に書き残しているが、彼女はアビラ村の名称ではなく、別名のほうで記憶していたことになる。また、アビラ村(芸術村)の「名主様=村長様」には満谷国四郎Click!が予定されており、「小使いさん」Click!からいきなり「村長様」へ出世しているのだ。少し長めの記事だけれど、下落合にとってはきわめて重要なテーマなので、同記事から全文を引用してみよう。
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 満谷国四郎氏を名主様に担ぎ/新しい芸術村が生まれる
 南薫造 金山平三 北村西望の諸大家を集め
 其名も西班牙(スペイン)のアビラに因んで/阿比良村と名づける
 画家の満谷国四郎氏を名主にして新しい芸術家村が出来る。場所は目白奥の市外下落合小上二千九十二、二千八百六(ママ)、七百八十九の五番地に渡つて約七千坪、住民には昨日まで決定したものに洋画家では前記満谷氏を始め南薫造 金山平三の両画伯、日本画の夏目政利(ママ)氏、彫刻家で北村西望、夏目貞亮(ママ)の諸氏だが、丁度眼前に開けた落合村の谷の景色が西班牙で有名なアビラの風景其儘といふ所からその名も阿比良村と名付け、満谷画伯を村長様に仰ぐ事に相談一決、目下銀座一丁目の東京土地住宅会社の手で地所を買収整理に従事してゐる。同会社の専務三宅勘一氏は『昔京都に光悦村と云ふのがあつた、其処は鑑定家の光悦が当時の画家刀剣家塗物師などを集めて住まはせた芸術家村だった 今も佳都乎村といふ芸術家村があり、此間高島屋で住民の工芸家連が工芸美術の展覧会を開いた事もある 又貴族院議員の下郷伝平氏が大石閑居で有名な山科村にも同じ様な文化村を経営してゐる。所でこんな芸術家村を一つ東京にも作つたらと思つて満谷国四郎さんにお話すると、それは面白いと二つ返事で今現に非常に骨を折つて居て下さるのです』と言つて居た
 崖の中腹で変つた村/眺望は非常に好いと満谷画伯語る
 又住民側から名主様に奉られた満谷国四郎画伯は曰く『土地が高燥で非常に眺望も好い所だから懇意な間の三宅君と相談をし我々仲間が少しづゝ買つて家を建てる事にしたのさ。西班牙のアビラは僕は見ずに終つたが、金山君等の話では南向きの崖の中腹に立つた一寸変つた村で、今度の土地も似てると云ふ程でない迄も幾らかその趣きがあると云ふ所から阿比良村と名づけたたのだ。僕が名主様だつて、そんな事を新聞に書かれちや困るねハ・・・・・・』
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 満谷国四郎は、アビラ村の名主様=村長様に担がれているけれど、本人は一度もスペインのアビラを訪れていないので村の命名者ではなく、彼自身は芸術村と呼んでいたフシが見える。記事を読むと、やはり「金山君等の話」とインタビューに答えているので、「アビラ村は、わしが名づけたんじゃ!」と、金山じいちゃんClick!が名付け親の可能性が非常に高いことがわかる。満谷と東京土地住宅の専務・三宅勘一との間で芸術家村構想が進み、声をかけられた芸術家たちが次々に参加してくると、さっそく金山が作品にも描いているアビラ村Click!を村名に提案したのだろう。小見出しに「変つた村」と書かれているけれど、金山じいちゃんのような変人が住んでいた、下落合の目白崖線中腹に拓けた土地なので、確かに変わった村にはちがいない。
 アビラ村の開発当初から、移住を予定している芸術家たちの名前が興味深い。金山平三Click!は、さっさとらく夫人Click!の貯金でアトリエを建てて下落合2080番地(金山の転居通知には1080番地と誤って記載されている。下落合小上に1000番前後の地番がふられたことは過去に一度もない)へ引っ越してくるが、その東隣りへ敷地を購入したのは満谷国四郎だった。満谷は、すでに九条武子邸Click!の北隣り、下落合753番地にアトリエを建てて住んでいたが、アビラ村計画がスタートしたら、金山アトリエの隣りへ引っ越す予定だったのだろう。また、夏目利政もすでに下落合に住んでおり、のちに弟の夏目貞良Click!が住むことになる九条武子邸の南隣り、下落合793番地にいたようだ。夏目利政はその後、近衛町Click!の舟橋邸Click!の敷地内に建てられた住宅、下落合486番地へ転居していることが、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」からうかがえる。
 
 
 アビラ村開発と、芸術家たちの移住計画が頓挫したのは、もちろん1925年(大正14)に表面化する東京土地住宅の経営破たんClick!だ。これにより、アビラ村計画はすべて中止され、同時に建設途上だった近衛町の事業もストップした。あとを引き継いで、一部土地の開発と既存の敷地を販売したのは、アビラ村の一部住民のご記憶にも残るように、また新聞紙上で近衛町の分譲広告を昭和初期まで打ちつづける、下落合では競合相手だった箱根土地だった。近衛町は開発がかなり進んでいたので、“町名”が忘れ去られることはなかったが、アビラ村(芸術村)のほうは大々的に販売される前に、東京土地住宅が破たんしたため早々に忘れ去られたのだろう。
 それにしても、アビラ村(芸術村)の計画時期の早さに改めて驚く。1922年(大正11)6月には、すでに新聞発表しているので、近衛町開発を追いかけてのプロジェクトだったのだろう。東京土地住宅は、下落合東部の近衛町と西部のアビラ村(芸術村)とで、同年から開発がスタートしている箱根土地の目白文化村Click!を、東西から挟み撃ちにしようとしていたのだ。もし東京土地住宅が経営破たんせず、近衛町やアビラ村(芸術村)が当初の構想どおりに完成していたら、目白文化村の存在はそれほど目立たなかったかもしれない。また、下落合は芸術家たちが寄り集まって暮らす“アーティスト・ヴィレッジ”というイメージが、より強烈に醸成されていたのかもしれない。

 でも、アビラ村(芸術村)という呼称が定着しなかったにもかかわらず、落合地域は期せずして大正期から戦後にいたるまで、東京じゅうの芸術家たちを集める街として発展していくことになる。同計画の発案者のひとりで、下落合753番地に住んだ満谷国四郎のアトリエ周辺、すなわち薬王院の森の北側一帯(下落合800番地台にいたるまで)は、服部建築土木Click!(現・タヌキの森Click!)の家作りと相まって、多数の芸術家たちが参集するエリアとなった。
 新聞記事に書かれた、アビラ村(芸術村)の範囲を示す地番だが、旧・下落合がいくら広大でも2806番地は存在しない。また、下落合789番地はまったく場所違いの薬王院墓地Click!であり、「2」を付与したとしても2789番地は存在せず、非常にいい加減な地番表記なのだ。さらに、島津家に保存されてきた「下落合(阿比良村)平面図」の範囲ともまったく一致していない。平面図には、はるかに広大なエリア(一ノ坂~六ノ坂の範囲)が、「阿比良村」として描かれている。この平面図は、1925年(大正14)以前に描かれたと思われるけれど、長くなるので、きょうはこのへんで・・・。

■写真上:下落合(現・中井2丁目)のアビラ村(芸術村)西端に、竣工して間もない巨大な西洋館。
■写真中上:1922年(大正11)6月10日発行の、読売新聞に掲載された「アビラ村」の記事。
■写真中下:上左は、1925年(大正14)建設の金山平三アトリエ。左手前の敷地が、満谷国四郎が一時購入していた土地だ。上右は、金山平三とらく夫人。下左は、金山平三の転居通知で下落合2080番地を1080番地と誤記している。下右は、島津源吉邸への道案内図。
■写真下:蘭塔坂(二ノ坂)上に描かれた道路の屈曲の様子から、おそらく1925年(大正14)以前に作成されたとみられる、島津家に伝わる「下落合(阿比良村)平面図」。