近衛町に建っていた帆足邸Click!は、1925年(大正14)2月に建設がはじまり同年8月には竣工している。広い屋上に出られる3階の小部屋を入れれば、地上3階・地下1階建ての、当時としてはめずらしい鉄筋コンクリート住宅だった。おそらく、近衛町Click!でも初めてのケースだったのではないかと思われる。このような短期間で、大正期に比較的大きなコンクリート住宅が建設可能だったのは、「中村式鉄筋コンクリートブロック」仕様と呼ばれる建築工法が用いられたからだ。
 そして、合理性を徹底追求した同邸を企画・設計し、仕事の能率向上と健康生活とを最優先のコンセプトにすえて室内調度まで整えたのは、早稲田大学教授の帆足理一郎ではなく、“有髪の尼僧”だった夫人の帆足みゆきClick!だった。目白文化村Click!の第一文化村に建っていた、やはり早大教授の末高邸Click!も女性が設計していることを以前にご紹介したが、住宅の企画・設計を女性が担当するのは、今日では別にめずらしくもないけれど、当時としては稀有なことだったろう。図面を引く中村鎮や工事関係者も、打ち合わせなどでとまどったのではないだろうか?
 1920年(大正9)に上野公園で開かれた「平和記念東京博覧会」には、「文化村住宅」とネーミングされたモデルハウスが14棟展示されているが、その中に1棟だけ鉄筋コンクリート住宅が出展されている。展示したのは日本セメント工業(株)で、当時、同社に技師長として勤めていたのが中村鎮(まもる)だった。コンクリート住宅は、のちに「中村式鉄筋コンクリートブロック」方式と呼ばれるようになる、独特な工法を用いて建設されていた。このあと関東大震災Click!を経て、耐震耐火のコンクリート住宅へのニーズが高まるとともに、中村鎮は日本セメント工業を退社し「中村建築研究所」を開設。そして、1925年(大正14)には下落合の帆足邸を手がけることになる。
 
 中村鎮は1914年(大正3)に早大理工科を卒業しているが、早くから鉄筋コンクリート建築に興味があったようだ。当初は陸軍の技手になるが、1918年(大正7)には東洋コンクリート工業へ技師として入社、翌年には日本セメント工業へ技師長として招聘されている。この間、米国タイプの洋風住宅を供給していた、あめりか屋Click!と組んだ仕事もこなしていたらしい。中村が考案した「鉄筋コンクリートブロック」方式は、明治末から研究が重ねられてきたRC構造の「アイデアルブロック」や「ヤマトブロック」などの課題を克服しようとした、新しい鉄筋コンクリート建築工法として大きな注目を集めた。1920年(大正9)に函館に建てられた、映画館「錦輝館」への採用を皮切りに、「中村式鉄筋コンクリートブロック」工法は広く全国へ普及していく。
 中村鎮は、仕事にもっとも身が入る時期、わずか44歳の若さで病死しているが、彼の告別式で弔辞を読んだ早大の恩師・佐藤功一が、中村の人となりを書き残しているので、1936年(昭和11)に出版された『中村鎮遺稿集』(中村鎮遺稿刊行会)から、その一部を引用してみよう。
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 卒業してから後、私の家に居つた関係上、私の庇護の下に学校に残つて勉強したいらしかつたが、私はもつと当人の心を練るために、社会に出る方がよからうと思つて、卒業の晩、お目出度く卒業したのだがこれからは何処か職を見付けて一生懸命にやらなければいかんと、少し突放し気味に話した事だつた。同君は私の話を聞き乍ら次第に啜泣をはじめ、一晩泣き明した事を記憶してゐる。/こんな事で、陸軍の建築の方に入られ、陸軍技手となつて実際の仕事に携はる事になつた。陸軍に入つてから構造計算の方に興味を持ち、時々来ては其自慢話をして行かれたりした。
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 1923年(大正12)に関東大震災が起きると、揺れに強く燃えにくいコンクリート住宅への需要が一気に高まった。「中村式」のメリットは、保温防湿性が高く経済効率が高いこと、建築リードタイムが短いこと、空洞のブロック材が軽量なため基礎工事の負荷低減と高いコストパフォーマンス、強い耐火耐震性、壁内の配管や配線もスムーズで外壁も美しいこと・・・などが挙げられる。おそらく、米国帰りの帆足夫妻は、この合理的な建築工法に共感して「中村式」を採用したものだろう。帆足夫妻が、直接「中村建築研究所」へ依頼したかどうかまでは不明だが、夫・理一郎の早大つながり、あるいは近衛町に多いあめりか屋Click!を通した仕事だったのかもしれない。
 また、中村鎮は1916年(大正5)に行なわれた「長瀬商店京橋社屋ビル」設計コンペに参加し、3等賞を受賞している。このとき長瀬商店とのつながりができ、近衛町の帆足邸敷地から道を隔てた東隣りに住んでいた長瀬家より、中村建築研究所を紹介してもらっているのかもしれない。このサイトでは、ついふるさとの東日本橋Click!つながりで下落合の三輪家Click!(ミツワ石鹸Click!)ばかり紹介しているが、同じ下落合の長瀬家(長瀬商店)とは花王石鹸Click!のことだ。
 帆足邸は1990年代初めぐらいまで建っていたので、わたしも実際に目にしているが、中村鎮の建築作品ということで、同工法を意識して観察したことは一度もなかった。もっとも、1965年(昭和40)7月27日に帆足みゆきが亡くなったあと、解体される少し前まで屋上部分に手を入れ、女子寮として使われていたようなので、気軽に見学するというわけにはいかなかっただろう。
 
 
 日本全国には、「中村式鉄筋コンクリートブロック」仕様で造られた建築物件が、現在確認できるだけで119件(解体物件含む)存在するそうだが、同工法は住宅ばかりでなく塀や擁壁などにも応用されている。1925年(大正14)の夏、下落合の帆足邸が竣工したあと、中村鎮は翌1926年(大正15)には本郷で弓町本郷教会の建設に着手している。
 さて、次回は、下落合(近衛町)404番地に建っていた中村鎮作品である帆足邸に、企画・設計者である帆足みゆき夫人を訪ねてみよう。

◆写真上:中村鎮の「中村式鉄筋コンクリートブロック」工法で建てられた、弓町本郷教会の外壁。
◆写真中上:左は、『遺稿集』掲載のプロフィール。右は、下落合404番地に建っていた帆足邸。
◆写真中下:中村鎮が技師長を勤めていた日本セメント工業が1920年(大正9)の「平和記念東京博覧会」へ出品した、コンパクトな“鉄筋ブロック造の耐火的建築”の上が展示写真で下が設計図面。このモデルハウスの意匠は、帆足邸の設計・建設にも活かされているのだろう。
◆写真下:1926年(大正15)に、本郷弓町(現・本郷1丁目)に建設された弓町本郷教会。