近衛町に建っていた帆足邸Click!が、中村鎮による「中村式鉄筋コンクリートブロック」工法により、1925年(大正14)8月に竣工したことは前回の記事Click!で書いた。同邸を設計したのは夫人の帆足みゆきClick!だが、竣工の翌年、1926年(大正15)に発行された『婦人画報』10月号で、インタビューを受けた彼女が企画・設計の意図や、生活思想などについて詳しく答えている。
 米国で暮らしていた帆足みゆきが、住宅設計でもっとも追求したコンセプトは合理性と効率化だった。同号のインタビュー記事を読むと、住環境の趣味や“あそび”、“ゆとり”といったことよりも、従来の日本の生活習慣にいっさいとらわれない、暮らしの徹底した“ゼロ”からの合理化が、帆足みゆきの最優先課題だったことがわかる。部屋の広さや位置、造りつけの調度の配置はもちろん、小窓の設置やコンクリート壁面の“穴あけ”からセキュリティにいたるまで、細部にわたり彼女の意志が家造りに貫徹されていた。ひょっとすると、「中村式鉄筋コンクリートブロック」の採用も、帆足みゆきの設計意志かもしれない。『婦人画報』の同号から、彼女の言葉を引用してみよう。
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 家庭の設備として能率を主として考へるならば先づ立つて仕事の出来る家でなければなりません。日本家屋のやうに坐つたり、かゞんだりして仕事をすることは実際の経験から申して能率の上に倍手間がかゝると思ひます。この意味で是非洋式生活を一般に取り入れたいと私は考へます。そして家の間取りを考へることも重要なことで、すべて足数を少く用を便ずるに適したやうに建てることが、設計をする際に最も大切であります。殊に台所などは狭い方が能率的であつて、勿論それには設備を充分考へねばなりませんが、私の考へとして、この台所に就いては最も設備をよく取り入れることが必要ではないかと思ひます。文化住宅といつて、徒らに玄関などを西洋流に取り入れるよりも、本統に洋式を真似るならばもつと学ぶべき点の多い台所を改良すべきだと思ひます。
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 同誌の性格から、インタビューは女性が仕事をする台所や食堂に重点が置かれているけれど、彼女のいう「仕事」は主婦の労働ばかりではない。自身の物書き(評論家)としての仕事をする部屋などにも、働きやすさの工夫が巧みに施されていたようだ。また、台所には火を使うガスを採用せず、目白駅東側の高田町高田1417番地に建っていた、やはり早大教授であめりか屋とも関係が深い山本忠興Click!の、日本初オール電化の家Click!と同様の設備にしている。
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 私共では炊事は全部電気にいたして居りますが、これも、主婦が親切に使用しなければ単に名のみの新設備に過ぎぬものになります。電気は余熱を利用しなければ不経済になります。又煮こぼしたりしますと、熱板を損じますから、使用する人は調節の方法をよく心得ておかねばなりません。一般の家庭が台所に時計を置かぬのは残念に思ひますが、玄関や居間になくとも台所こそ最も時計が必要であつて、殊に煮炊する上に一定の時間を見るといふことが大切であります。
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 食材の種類によって、煮炊きの時間を細かく計算・管理し、省エネ・省コストとともに料理のトータルリードタイム短縮をめざしたり、家の中でもっとも不潔・不衛生になりやすいトイレへ大きな建設予算を注ぎこみ、下水道完備の本格的な水洗トイレを設置したりと、その家造りからは論理的で徹底した合理主義者だった、帆足みゆきの几帳面な性格がうかがえる。
 
 
 玄関や勝手口のコンクリート壁面に穴を開け、まるでチケット売り場のような小さな窓口を設けて、いちいち玄関や勝手口を開けずに月掛けの支払いを済ます・・・というような発想は、おそらく類例のない彼女ならではの工夫だろう。御用聞きに対する注文も、わざわざ玄関を開けて応接する時間がムダということで省略され、彼女ならではの方法が考案された。玄関前にデイリー注文ノートを設置し、毎日必要なものを店舗別に分けて記入しておき、店からの配達は勝手口へ・・・という、なんだか今日の生協などによる宅配システムのような方法を採用している。このノートは、店舗別月掛け金額との照合や、月次注文量の管理などにも活用されることになる。
 台所から食堂にかけての設計にしても、彼女のアイデアは斬新で今日のキッチンダイニングの概念を先取りしている。台所・配膳室と食堂との間にある壁に穴を開け、料理をカウンター越しに食堂側へ出すことができる仕組みになっていた。食堂にいる夫や子供たちは、それを受け取りテーブルに並べるという家族の役割分担を前提とした、当時としてはたいへんめずらしい設計だった。
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 流台と共にいさゝか工夫を試みたのが戸棚で、これも入れるものに依つていろいろ順序を考へました。引出しは細々したものを部わけして入れるためで日常使用するスプン類、煮物用箸類、パン粉、玉子といつた物は、それぞれ心覚えの別々の引出しに入れます。そして、毎日使用の品は流しに最も近い場所に納めるやうにいたします。中央の棚には茶碗類をこれも、日常出入れに便利であるやうに近いところ置きますが、恰度、流しで洗つて拭く手間とそこに足を運ぶ間が同じ位の位置に戸棚の距離をとつてしつらへてあります。
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 既存の習慣のように、糠味噌の樽を縁の下にしまい、いちいち腰をかがめて漬け物を漬けたり、取り出したりするのは非効率的で、しかも身体にも負担をかけてよくないということで、流しの下に大小の収納を造りつけにし、米や味噌・醤油などの調味料とともに糠味噌樽もセットしてしまったり、天井まである食器棚を作ってしまう帆足みゆきの発想は、それほど時を経ずして、日本の台所や食堂の設備ではあたりまえのシステムとなっていった。
 帆足邸の中で、実際の暮らしを通じて行なわれたさまざまな“生活実験”は、現代ではごく標準的な利便性として生活の中に活きつづけている。

◆写真上:1926年(大正15)の『婦人画報』10月号掲載の帆足一家で、左から右へ帆足理一郎、帆足みゆき、喜與子、みち子。雨天取材だったのか、「窓/雨の日」というグラビアタイトルだ。
◆写真中上:上は、屋上の小部屋を含めれば地上3階・地下1階の帆足邸側面図。中は、東側の道路上から眺めた立体スケッチ。下は、1階と2階の平面間取図で番号は撮影ポイント。
◆写真中下:上左は、配膳室とカウンターでつながる食堂。上右は、流し台の下に収納を設けた台所。下左は、天井まである造り付けの食器棚。下右は、開け閉めのできる小窓がある玄関。
◆写真下:上左は、ソファセットのある応接間。上右は、2階の北東か南西角と思われる帆足みゆきの仕事部屋。中左は、彼女が亡くなる2年前の1963年(昭和38)に撮られた空中写真にみる帆足邸。中右は、藤田孝様Click!にお見せいただいた「近衛町分譲地割図」Click!にみる帆足邸敷地。下左は、帆足邸の屋上平面図。下右は、近衛町の帆足邸跡の現状。