御留山のカルガモ坂(御留坂)をはさんだ東側、林泉園から下る渓流の谷底に形成された、弁天池の中ノ島に建立されていた弁天社(祠)について、行方不明になっていることを以前の記事Click!で書いた。少なくとも、東邦生命が相馬邸跡である御留山を所有していた戦後まで、確かにそこに存在していたのは多くの住民たちにも目撃されている。中ノ島の弁天の祠が忽然と姿を消したのは、おそらく1960年(昭和35)前後ではないかと思われる。
 昔は、御留山に隣接した藤稲荷Click!の宮司もつとめられ、現在は落合総鎮守である氷川明神社の宮司・守谷和穂様にお話をうかがって、ようやく弁天社のゆくえが判明した。御留山弁天の祠は、東邦生命が100万円の「持参金」を付けて、上野・不忍池Click!に浮かぶ弁天堂に「引き取って」もらっていたのだ。なぜ、東邦生命がそのようなことをわざわざしたのかといえば、この弁天池をなんらかの新たな事業に活用しようとしていたフシが見える。それは、1960年(昭和35)に住宅協会が作成した「東京都全住宅案内帳」を見ると、同池の上に「精魚場」と記載されていることでもうかがえるのだ。しかも、中ノ島はこの時期、撤去されていたものか同地図には描かれていない。おそらく、淡水魚をめぐるなんらかの養殖事業を行おうとしていたのではないだろうか?
 すでにお気づきの方も多いと思うが、不忍池の弁天堂は寺(仏教)であり、御留山の弁天社は古くからの社(やしろ)だ。東邦生命の行為は、ハッキリいって神仏になんら配慮のない、無神経な所業といわなければならない。守谷様によれば、その後、下落合の住民も含めた方々が、不忍池弁天堂へ弁天社の返還交渉に行かれているようだが、にべもなく拒否されたらしい。やはり「持参金」を受け取ってしまった手前、弁天堂の側としては返しにくいのだろう。こうして、御留山弁天社はこの世から永久に姿を消してしまった。湧水源の林泉園から御留山の東側、弁天池にかけての大きな谷戸全体に、この40~50年ほど「無神」状態がつづいていることになる。
 
 弁天社のゆくえを探っているうちに、もうひとつ別の悩ましい課題が浮上してきた。以前の記事に取り上げた、御留山相馬邸の敷地北東部にある、都市計画東京地方委員会Click!制作の3千分の1地形図に採取された鳥居マークだ。わたしは当初、これが近衛篤麿Click!の敷地だった時代から建っていた、当初の弁天社ではないのかと疑ったのだが、氷川明神の守谷様は「相馬さんの社じゃないかな」・・・と記憶されていた。つまり、相馬家の太素神社Click!(妙見社)ということになる。ところが、ここに太素神社があると困ってしまうのだ。まず第一に、1938年(昭和13)現在の「火保図」を参照すると、この位置には「相馬恵胤」Click!のネームが採取されたレンガ造りの建築が見えており、相馬孟胤の母屋に対して敷地内別邸の可能性があること。第二に、3千分の1地形図に見えている北側に接する道路から社への入口と思われる切れ目が、「火保図」には見えず土塀つづきになっていること。(レンガ建築の裏に、小さななんらかの建物は描かれている)
 第三に、『相馬家邸宅写真帖』Click!(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)に掲載された太素神社の写真が、どう見ても北向きの光線ではなく南向きの光線であること。しかも、3千分の1地形図に採取された鳥居マークの位置にあったとすれば、地形が画面の右下がり、つまり東側へ下る坂状の斜面でないとおかしいことになるが、写真では手前も奧の地面も水平に見えること。
 
 第四に、相馬孟胤の死後、相続税の課題から1939年(昭和14)に御留山が東邦生命に売却され、相馬家が中野へ転居した直後、東邦生命の太田清蔵Click!は相馬邸跡を住宅地として造成しはじめ、3千分の1地形図に描かれた鳥居マークのまさにその位置へ、南北の道路(現・カルガモ坂または御留坂)を造成しはじめていること。それは、1944年(昭和19)に陸軍が撮影した空中写真でも確認することができる。換言すれば、ここに太素神社があったとすれば、どこかへ遷座しない限り道路は開拓できないことになる。しかし、空襲にも焼け残った太素神社の建築は、1952年(昭和27)にようやく福島県相馬郡小高町にある、相馬小高神社の奥の院として移築されている。
 守谷様の貴重な証言も含め、これらの情報を総合的に踏まえて考えてみると、太素神社は昭和に入ってから相馬邸の敷地内で一度、移築されているのではないだろうか? この推測にひとつ無理があるとすれば、1913年(大正2)に制作されたはずの『相馬家邸宅写真帖』に写る太素神社が、なぜ水平の地面に建ち、南向きに見える光線で写っているのか?・・・という点だが、相馬彰様Click!によれば同写真帖には“改訂”が加えられている痕跡が見られる・・・とのご意見だ。目次を参照すると、確かに太素神社は項目のいちばん最後へ通し番号ではなく、「一」と付け足しのように掲載されており、写真の追加とともに目次自体が修正されている可能性がある。

 
 つまり、太素神社を相馬邸母屋の西北側へ移築し、北側の道路へ新たな参道口を設置したあと、改めて同社の写真を撮り直し、目次ともども挿し替えているのではないか?・・・ということになる。『相馬家邸宅写真帖』は、糸綴じではなく黒い紐で2つ穴を綴じただけの簡易冊子であり、目次や写真の挿し替えはかなり容易だったと思われるのだ。

◆写真上:御留山弁天社の祠があった、弁天池に接するカルガモ坂(御留坂)。
◆写真中上:左は、1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる弁天池の「精魚場」記載。右は、1625年(寛永2)に不忍池の中ノ島に建立された弁天堂。
◆写真中下:左は、1922年(大正11)に都市計画東京地方委員会が作成した3千分の1地形図。その後改定がつづけられているが、いつの時点での改訂表現なのかが不明。右は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる相馬邸で、翌年に中野へ移転する直前の様子を記録したもの。
◆写真下:上は、『相馬家邸宅写真帖』の目次で連番ではない太素神社が最後に掲載されている。下左は、おとめ山公園の弁天池に残る中ノ島。下右は、カルガモ坂(御留坂)を上がりきったあたり。3千分の1地形図の鳥居マークは、この道の突き当たり手前に位置していたことになる。