勝巳商店が、1940年(昭和15)1月20日に販売を開始した昭和版「目白文化村」Click!は、はたして下落合のどこにあったのだろうか? 箱根土地に関連した目白文化村Click!の資料には、もちろん勝巳商店が開発・販売した「目白文化村」の記録など含まれていない。1940年(昭和15)現在、広告の“現地写真”に見えるような、比較的広大で見晴らしのよい宅地造成地は、西武電鉄の中井駅から徒歩3分で歩ける距離には、もはや存在していない。もう少し足をのばし、目白崖線を上がりきって徒歩6~7分でたどり着ける位置に、ようやくそれらしい造成地が見てとれる。
 すなわち、第二文化村の西側にそのまま連続した土地で、南北に細長くやや北側に傾斜した一帯の敷地が、当時、まとまった宅地造成が可能となる残された空き地スペースだった。分譲広告コピーのうたい文句にあるように、中井駅から1町半(約164m)で徒歩3分などではなく(走れば別だが)、たっぷりその倍の距離はあるだろう。分譲地東側の南北面が、第二文化村の西端へ接していることで、勝巳商店と箱根土地との間でどのような契約が取り交わされたのかは不明だが、確かに「目白文化村」という商標を利用しても不自然ではない立地条件をしている。
 ちなみに、勝巳商店の昭和版「目白文化村」は、佐伯祐三Click!が「テニス」Click!に描いた益満邸テニスコートの向こう側(西側)に拡がる、1926年(大正15)当時は広い畑地か原っぱだったエリアだ。1936年(昭和11)の空中写真を確認すると、この開発分譲地の東南端の一画、つまり第二文化村の益満邸の西隣りの大きな邸宅(宮本邸)を除いて、家屋はいまだ1軒も建設されていない。でも、1944年(昭和19)および1947年(昭和22)の空中写真を見ると、1940年(昭和15)の販売スタート以来、少しずつだが家々が建ちはじめている様子がうかがえる。
 前回でも触れたけれど、1940年(昭和15)という年は太平洋戦争突入の前年であり、土地でも買ってマイホームを新築しよう・・・などという、ノンキで悠長な時勢ではなくなりつつあったはずだ。だから、1944年(昭和19)の空中写真に見えている新築と思われる家々は、ほとんど全戸が1940~42年(昭和15~17)の戦前あるいは戦争初期に竣工したものではないだろうか。それ以降は、物資も機材も物流もすべてが不自由となり、一般の住宅建設が容易だったとは思えない。幸いなことに、勝巳商店が分譲した昭和版「目白文化村」は、1945年(昭和20)4月13日の夜半に行なわれたB29による文化村空襲Click!からも、かろうじて焼け残っている。では、新聞広告に掲載された“現地写真”の2枚は、分譲地のどの位置からどの方角を向いて撮影されたものだろうか?
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
 
 まず、1940年(昭和15)1月20日の主要紙に掲載された冒頭の写真は、敷地や道路が手前に向かって少しずつ下がり気味だ。コピーには大谷石と書かれているけれど、コンクリートのように見える縁石が手前に向かって緩やかに下っている。(実際に現地を取材すると、確かに大谷石の縁石も一部では見られた) 手前右側の敷地に接して、おそらく右枠外に左手のダラダラ坂と直角に交わる道路が通っており、手前右端に写る縁石の角度から、どうやら“スミ切り”Click!が行なわれているようだ。ところどころ、敷地にはクロマツと見られる樹木が植えられていて、すでに電柱も何本か見えている。箱根土地の目白文化村と異なるのは、電柱の姿からも地下共同溝が設置されていない点と、最初からガスが引かれている点だろうか。おそらく、勝巳商店の「目白文化村」では、当初から電燈線柱や電信柱が地上に存在していたと思われる。
 1月20日の“現地写真”に見られる風情は、実際に分譲地の現場(もちろん現在は住宅街の真ん中だ)を歩くと、すぐに特定することができた。分譲地中央の十字路あたりから、目白崖線の尾根沿いに通うアビラ村の道Click!(上の道Click!)の方角を向いて、すなわち南南西の方角を向いて撮影している。遠方に見えている家並みは、アビラ村(芸術村)Click!の道沿いに建設された家々だ。正面に見える、特徴的な破風を3つ備えた大きな屋敷は、中井2丁目ではなく「下落合四丁目」の住所入り表札をいまだ掲げておられる、1940年(昭和15)当時の陸路邸(旧邸)の姿だと思われる。余談だけれど、同邸の北側壁面には大きな採光窓が見えており、アトリエが設けられていたのだろうか?

 
 
 さて、もう1枚の1940年(昭和15)2月24日の広告に掲載された“現地写真”は、しばらく見ていたら建物の位置やかたち、眼前に拡がる地形などの様子から、どこを撮影した写真なのかが現場を確認する前に想定できた。分譲地を南北に貫くメインストリートから、少し東側に入った道路上より、カメラを西南西に向けてシャッターを切っている。カメラマンのすぐ背後には、大正期に箱根土地が販売した第二文化村と昭和版「目白文化村」との敷地を区切る、高さ1.5mほどの大谷石の擁壁と、右手の背後には1938年(昭和13)に作成された「火保図」によれば、当時は「道徳科学研究所」のひときわ巨大な西洋館が建っていたはずだ。
 遠方に見えている、突き出た高台の上に乗る横長の建物群は目白商業学校、今日の中井御霊社北側にある目白大学(目白学園Click!)の校舎だ。最初は、分譲地の北西に位置する落合第三小学校かとも思ったけれど、校舎の形状や規模がもう少し大きいし、手前から奥へ向けてやや下がり気味に傾斜している地面の様子、さらに学校の前面には少し落ち込んだ地形が見てとれるところから、間違いなく半島のように突き出た高台の上に建つ目白商業学校だろう。実際に現場へ出かけてみると、背の高い住宅が多くなった現在でも、目白学園の校舎上部を確認することができる。
 勝巳商店としては、人気の高い「目白文化村」のネームを用いて、坪あたりの単価をできるだけ低めに抑え(それでも分譲後1ヶ月で値上げしているが)、この分譲地を短期間で完売したかったにちがいない。でも、日本が戦争への道をまっしぐらに突き進むこの時期、思惑は外れてなかなか思うように売れなかったのではないだろうか。この昭和版「目白文化村」=「第五文化村」の分譲地に、家々がすき間なく建てられ全区画がほぼ埋まるのは、1960年代になってからのことだ。

 
 余談だけれど、当初は三間道路(約5.4m道路)として企画されたらしい、「第五文化村」のメインストリートだが、戦後すぐのころから五間道路(約9m道路)に敷設しなおそうとする動きがあったようだ。1963年(昭和38)の空中写真を見ると、大きく拡幅された道路が北から南へと延びてきている。ところが、アビラ村の道(上の道)の出口に大きな屋敷をかまえていたお宅が、とうとう最後まで同意しなかったとみえ、結局70%ほど完成していた五間道路は破棄され、現在は再び本来の三間道路の道幅にもどっている。きっと、翌年に開催される東京オリンピックの浮かれ景気と勢いとで、拡幅工事が強引に進められたのかもしれないのだが、今日的な眼から見るとヘタに大通りなどを造り、落ち着いた文化村の風情を台無しにしなくてよかった・・・とも思えてしまう。
 もし、この大通りが完成していたら、広い接道スペースを確保できる立地から、80年代に入るとさっそく地上げや、大規模なマンション計画などが持ち上がっていたかもしれない。

◆写真上:1940年(昭和15)1月20日の主要紙に掲載された、分譲地広告の“現地写真”。
◆写真中上:上左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる第二文化村に隣接した勝巳商店版「目白文化村」(第五文化村)の区画。いまだ原っぱのように見えているが、メインストリートとなる道路などがすでに“キ”の字型にできつつあるのがわかる。上右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同分譲地。空襲による火災はなんとかまぬがれたものの、住宅は全区画のいまだ半分ほどしか建設されていない。下は、1940年(昭和15)2月24日の広告に掲載された“現地写真”。
◆写真中下:上は、“現地写真”2枚の撮影ポイント。中左は、1月20日に掲載された“現地写真”の現状。中右は、同分譲地の西端道路の様子でメインストリートよりも急傾斜だ。下左は、いまでも文化村らしいデザインの住宅が建つ。下右は、大谷石による縁石も一部には残っている。
◆写真下:上は、同住宅街から見た目白学園のビル状校舎。下左は、第二文化村との境界にある大谷石の擁壁で、段上の敷地が箱根土地による第二文化村。下右は、1963年(昭和38)の空中写真にみるメインストリートの拡幅工事。現在は、本来の三間道路幅にもどっている。