学生時代も含めると、わたしはずいぶん以前から小野田製油所Click!のゴマ油ファンだ。和食の揚げ物や、中華の炒め物をするには、やはり昔ながらの玉締め無添加ゴマ油がうまい。目白通りの酒屋さんや、80年代から増えはじめた自然食の店などで、混じり気のない純正なゴマ油を求めると、小野田製油の「玉締一番しぼり・ごま油」が手に入った。
 下落合教会Click!の下落合みどり幼稚園Click!へ、オスガキたちがつづけて通いはじめると、送り迎えに目白文化村Click!の中を通るので、そのまま第一文化村の三間道路から目白通りへと抜けて小野田製油所へ立ち寄り、直接ゴマ油を買ってきていた。先日、同製油所の店舗部を描いた貝原浩の「下落合風景」に関連して、久しぶりに小野田製油所を訪れたので、取材がてら「玉締一番しぼり・ごま油」の800g缶をついでに分けてもらってきた。これで揚げた江戸前天ぷらClick!は、「天ぷら油」などという商品名で売られている一般の食油とは、比べものにならないほど美味しい。うまさの秘訣は、ことさら特別に工夫した製造技法を発明しているわけではなく、江戸時代からの技術をそのままガンコに、今日まで踏襲しつづけているにすぎないのだ。
 
 江戸期からつづく伝統的な製造技術とは、御影の玉石による「玉締め法」と呼ばれるもので、小野田製油では昔ながらの圧搾法をそのまま継承している。市販の「ゴマ油」とは異なり、添加物や別種の食油を加えて“油増し”せず、純粋な一番しぼりを手漉きの和紙で靜置濾過するという、非常に手間ヒマのかかる製法を守りつづけている。市販の混ぜ物が多い食油では、皮膚にアレルギー症状(アトピー)が出ていた下のオスガキも、小野田製油のゴマ油を使用すると症状がほとんど表れなかった。それほど、油の品質が高いということなのだろう。同製法によるゴマ油は古来から「金口」と呼ばれ、時代によっては超貴重品として扱われてきたらしい。
 ゴマ種子は、しぼる前に香味を高め搾油しやすくするために、コーヒー豆と同じように焙煎されるのだが、小野田製油ではナラやクヌギの薪材を燃料に、時間をかけて焙煎している。薪材による焙煎は、高温になりすぎず温度調節がしやすいからなのだそうだ。大量生産するために、大手の製油工場のように焙煎の熱源を灯油や重油にすると、高温になりすぎて深煎りとなってしまい、ゴマ本来の風味が台無しになってしまうとのこと。だから、時間はかかるし人手はいるけれど、ゴマの種子を傷つけないようゆっくり焙煎して、芳香や風味を最大限に引き出すのだという。
 
 焙煎が終わり、釜揚げしたゴマは冷やしながら粉砕され、蒸気で一度蒸されたあと、木綿のマットに包まれてようやく圧搾工程に入る。ゴマの圧搾は、マットと玉状の御影石とが擦り合って、油が平均的に木綿マットからジワジワと染み出すようにしてしぼられていく。こうして得たゴマ油は、そのまま一昼夜寝かされ、夾雑物を沈殿させてから自然落差により布で濾過したあと、さらに手漉き和紙の筒で時間をかけて濾過を繰り返す。そして、ようやく製品として容器へパッケージされるわけだ。このように面倒な製造方法を、今日でも守りつづけている製油所は、確かに全国的にも数が少ないにちがいない。だからこそ、身体や健康のことを気づかう、あるいは味にうるさいホンモノの食品を入手したい人々にしてみれば、小野田製油のゴマ油はなくてはならない存在なのだろう。
 
 ゴマには、リノール酸(不飽和脂肪酸)をはじめ、タンパク質、ビタミン類、ミネラル類などの成分が含有しており、小野田製油の「玉締一番しぼり・ごま油」には、それらが壊されることなく豊富に含まれている。食品の品質にことさら厳格な生活クラブ生協をはじめ、もはやめずらしくなくなった各地の自然食の流通販売ルート、あるいは味にうるさい人たちご用達しのデパートや食品店、料理店などを通じて、日本全国に同ゴマ油の熱烈なファンが大勢いるらしい。
 大正期からつづく下落合(現・中落合)の物産が、全国規模で食油の“原点スタンダード”化しているようで、小野田製油の特徴のあるパッケージを見かけると、なんとなく嬉しくなってくるのだ。

◆写真上:下落合では昔からお馴染みの、小野田製油所が造る「玉締一番しぼり・ごま油」。
◆写真中上:左は、小野田製油の店舗部を目白通りをはさんで正面から。1932年(昭和7)の建築で、工場は左手(東側)に隣接している。右は、同製油所内にある母屋側の玄関。
◆写真中下:左は1936年(昭和11)の、右は1947年(昭和22)の空中写真にみる小野田製油所。1944年(昭和19)の目白通り沿いで行なわれた建物疎開Click!からまぬがれ、また翌1945年(昭和20)4月13日の文化村空襲Click!、さらに5月25日の山手空襲Click!からも焼け残った。
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
★その後、目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。
◆写真下:左は、玉状の御影石を用いた玉締め圧搾機。右は、生活クラブ生協用の特別パッケージに詰められた小野田製油所のゴマ油。