佐伯米子Click!(池田米子)は、1897年(明治30)に銀座尾張町(京橋区銀座4丁目9番地)で生まれ、泰明小学校Click!(のち転居Click!で桜田小学校へ転校)へ通った生っ粋の銀座っ子だ。同じ銀座生れの画家に、銀座2丁目10番地の岸田劉生Click!がいるが、精錡水本舗Click!が開店していた位置に比べれば、池田象牙店の米子は銀座の真んまん中で生まれ育ったことになる。
 1955年(昭和30)発行の『婦人の友』7月号に、米子が生家を思い出しながら描いた「銀座風景」が掲載されている。それを見ると、現在の銀座三越が建っている敷地あたりから銀座3丁目方向へとつづく、銀座4丁目9番地~同14番地にかけての店舗が、かなり省略されながらも描かれている。いちばん右端に描かれているのは、当時は東洋一をキャッチフレーズにしていた山崎洋服店、その左が米子の生家である池田象牙店、左隣りが出頭たばこ店、数軒おいてパンの木村屋の旧店舗(~1923年)、左端が京屋時計店の銀座支店という順番だ。池田象牙店は、服部時計店のほぼ真向かいに当たる。また、この風景画がきわめて貴重なのは、よく“幻の”と付けて呼ばれる寄席「銀座亭」への入り口が、京屋時計店の右隣りに見えている点だ。
 このような環境で育った米子の味覚が形成されたのは、進取の精神に富んだハイカラな銀座の食べ物文化の中心であって、隣りの日本橋地域で育ったうちの祖父や親父とは、“うまいもん”Click!の基準がやや微妙に異なっていたのではないだろうか? すなわち、和食や魚はともかく、ハイカラな食べ物や新しい料理にかけては、より口がおごっていたと思われるのだ。彼女が夫(佐伯祐三Click!)とともに、パリへ長い間滞在したにもかかわらず、脚が不自由なせいで買い物の不便さは記録しているものの、食べ物についての不満をそれほど書き残していないのは、味覚が幼いころから“洋”に慣れ親しんでいた銀座育ちが、大きく影響しているのかもしれない。


 佐伯米子は、肉が大キライで菜食を好んだようだ。佐伯祐三が、毎日すき焼きClick!を作っては曾宮一念Click!や山田新一Click!たちとアトリエの中2階Click!で食べていたとき、おそらく真っ先に気持ちが悪くなっただろう。牛肉や豚肉は決して口にせず、鶏肉や卵はたまに食べていたらしい。戦後は、洋食よりも和食が好きだったようだが、魚もことさら淡白な風味のものを選んで食していた。1952年(昭和27)に発行された『婦人朝日』1月号から、彼女の食生活や好みについて引用してみよう。
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 私は大変食物がかたよつておりまして、あつさりしたものばかり好きなのです。キリギリスのように、きゆうりだの、ミツバだのほうれん草、カブの葉の浅漬、それからお魚ならば、白身のものばかり、鮎とか、キスとか、小あじ、お刺身なら、ひらめ、鯛、鯉のあらいや、そんなものばかりを好み、お肉はきらいでございます。/このように、ごくあつさりした日本式な食物しか頂かない私ですから、お肉のお料理を作つても味もみられませんのに、それを美味しいと、いわれることもありますが、これは多分お世辞かと思います。
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 そんな肉のキライな佐伯米子が、たまに作る肉料理というのがあった。鶏を1羽丸ごと使った、バター煮とでもいうべき料理だ。「鶏の丸煮」と名づけたレシピなのだが、「じゅうぶん肉食じゃん!」と突っこみたくなるのはとりあえず抑えて^^;、淡白な鶏肉とバターを大量に用いた、かなり濃厚でうまそうな肉料理なのだ。以下、パリ仕込みの佐伯米子風「鶏の丸煮」レシピをご紹介しよう。
★鶏の丸煮
 (1)大鍋に、卵ほどの分量のバターを入れて火にかける。
 (2)バターが溶けたら、羽根や骨をよく取った鶏を丸ごと入れる。
 (3)鶏肉に色が付いたら、塩と胡椒をふって弱火で1時間ほど煮つづける。
 (4)肉を皿に切り分け、鍋のスープをそのままかけて召し上がれ。

 ちょっとというか、かなりバターの風味がしつこそうなので、わたしならブイヨンや白ワイン、香味野菜などを加え、皿の横にはレモンかオレンジを添えたくなるのだが、彼女は「大人も子供も喜ぶ」料理として紹介しているので、きっとアトリエを訪ねてきた人たちに作ってあげたのが好評だったのだろう。鶏の羽根をよく取る・・・と書いてしまうところが、養鶏場の隣りClick!に住んだ昔の名残りなのかもしれない。また、フランスの香料をふんだんに使った、ハムの煮料理というのも紹介している。
★ハムの香味煮
 (1)ハムをそのまま大鍋に入れ、かぶるぐらいに水を加える。
 (2)パセリ1束、テーム、ローリエ、玉ネギ、ニンジン、ニンニクを加えて煮込む。
 (3)煮汁が少なくなったらハムだけ取り出し、薄く切って温かいうちに召し上がれ。
 「お肉はきらいでございます」と書いていながら、そのすぐあとでハムを「うすくきつて、すぐに頂くとおいしいものでございます」と肉料理のレシピばかり教えてくれる米子夫人へ、「やっぱし肉食系女子じゃん!」と再び突っこみを入れたくなるのだけれど^^;、この料理も既成のハムの風味がガラリと香ばしく変わって、確かに美味しそうだ。ほかにも、鶏肉と野菜と米とをいっしょに鍋に入れ、朝から晩までコトコトと弱火で煮つづける、西洋おじや料理なども紹介している。
 「アトリエ・クッキング」などというタイトルを付けてしまったけれど、もちろん佐伯米子は母屋の台所でこれらの料理を作っていただろう。さっそく、彼女にならって「鶏の丸煮」を作ってみた。鶏1羽だと大ごとになるので、冷蔵庫にあった腿肉を代用した。やはり、バターに塩コショウだけだと味がくどいので、ブイヨンとワインを少々入れ、ついでに野菜類も加えてみた。鶏肉には、煮汁だけでなくほんの少しパセリと生クリームを添えると香りがグッと引き立つようだ。
 
 「鶏の丸煮」は、彼女が子供のころに銀座で食べた、バターをたっぷり使った洋食メニューの、懐かしい舌の記憶なのかもしれない。わたしが子供のころでさえ、塩コショウ以外の凝った香料は、なかなか家では使わなかった。もっとも、池田家は象牙を輸入し加工する貿易事業を行なっていたので、海外のめずらしい物産が米子の周囲にはあふれていたのかもしれないのだが・・・。

◆写真上:1953年(昭和28)1月8日発行の、朝日新聞の家庭欄に掲載された佐伯アトリエの佐伯米子。大きな石炭ストーブと、壁に架かるゴヤの『裸のマハ』などが印象的だ。
◆写真中上:上は、1955年(昭和30)発行の『婦人の友』7月号に掲載された明治末ごろの佐伯米子が描く生家界隈。下は、明治期に印刷された東京百景の人着絵葉書「銀座通りの繁栄」。
◆写真中下:1955年(昭和30)発行の美術誌『造形』5月号に掲載された、佐伯アトリエの米子夫人。アトリエの様子が3年前の写真とまったく変わらず、米子夫人の着物や茶器までが同じなので、おそらく発行元の造形同人会が朝日新聞社からバリエーション写真を借りたものだろう。
◆写真下:米子夫人を真似して作った「鶏の丸煮」もどきの「鶏の脚煮」で、パセリと生クリームをかけて茹でたズッキーニを添えた1皿は「たいへん美味しゅうございました」。