大正の末ごろ、下落合のアトリエで仕事をしたかった洋画家に萬鉄五郎Click!がいる。岩手の土沢出身の萬は、早稲田中学に通いながら一時期、牛込区矢来町に住むなど新宿周辺のエリアには子供のころから馴染みがあり、付近の風景作品も多く残している。1926年(大正15)にアトリエ探しを依頼したのは、東京美術学校で萬鉄五郎の5年後輩にあたる、当時は雑司ヶ谷威光527番地(現・豊島区南池袋)の雑司ヶ谷鬼子母神裏に住んでいた清水七太郎Click!だった。そして、この清水七太郎こそが、目白中学校Click!で美術を教えていた“名物教師”だったのだ。
 萬鉄五郎と清水七太郎との出会いは、おそらく1914年(大正3)にまでさかのぼるだろう。萬は同年、家族をともなって郷里の岩手・土沢へと一時帰っているが、同じ岩手・盛岡出身の清水七太郎ら地元の洋画家たちが結成していた黄菊社(1914年)、あるいは七光社(1915年)などの展覧会へ、萬は作品を出展している。2年後の1916年(大正5)、萬鉄五郎は再び東京へともどっているが、清水七太郎とのつながりは途切れることなく、その後もずっとつづいていた。やがて、清水は目白中学校で美術教師の職を得て、雑司ヶ谷威光に住むことになる。
 萬は1919年(大正8)から、茅ヶ崎天王山の「木村別荘」(茅ヶ崎町茅ヶ崎4275番地)で暮らしはじめるけれど、1927年(昭和2)に死去するまで同地を動いていない。前年の1926年(大正15)の暮れ、萬は16歳の長女・登美を結核で亡くしており、失意のうちに自身も健康を害して他界している。1926年(大正15)は、登美を看病しながらすごしていた時期にあたり、萬は環境を変えて心機一転したかったのか、同年5月になると清水七太郎へアトリエ探しを依頼している。1998年(平成11)に出版された、『萬鉄五郎書簡集』(萬鉄五郎記念美術館)から引用してみよう。
  ▼
 大正15(1926)年5月18日
 東京市外雑司ヶ谷威光五二七 清水七太郎様  相州茅ヶ崎天王山 萬鉄五郎
 其後御無沙汰致しました。子供の病気の時(、)御尽力下され誠ニありがたく存じました。此の頃ハ大変よい方です。阿部君の画室はふさがりましたか(。) 若しあゐているなら一ヶ月位かりてモデルをやりたいと思ふがどうでせう。貴兄もかきに来られてもよいのです。御忙しいでせうが空いてゐるやうなら聞いて呉れませんか(。) ゆっくりでもいいです。八月頃(、)大磯でこの辺の人達と展覧会をやるかも知れません。その時は知らせるから出品して下さい。大磯ハ売れる様な話です。画室の事頼みます。(カッコは引用者註で以下同)
  ▲
 このときは、いまだ下落合のアトリエの話は出ておらず、「阿部君の画室」を一時的に借りてモデルを描く予定になっている。これが2ヵ月後の7月になると、茅ヶ崎から下落合の画室を借り受ける、本格的な転居話へと変化しているようだ。娘の病状とも、無関係ではないのかもしれない。
 
  ▼
 大正15(1926)年7月4日
 東京市外雑司ヶ谷町五二七(威光) 清水七太郎様  相州茅ヶ崎町 萬鉄五郎
 御葉がきありがたう。落合の画室と言ふは広さはどの位で家賃は何程でせうか至急御知らせ下さい。九月まででないとかしませんか。其の辺も御わかりならなるべく詳しく御知らせ下さい。まだ元気が出ない由充分御大事に御注意下さい。○印の方ハ間ニ合ひましたか、御返事待ちます。
  ▲
 ここに登場する「落合の画室」とは、清水七太郎がおそらく周囲の画家たちに情報を当たり、たまたま貸し画室として出たばかりのを見つけた、下落合584番地の二瓶等Click!アトリエのことだった。このとき二瓶は、渡仏を前に東京や故郷の北海道で個展を開いており、また長期間留守にするので下落合のアトリエも賃貸に出したのだろう。下落合とその周辺には、数多くの画家たちが集合してアトリエをかまえていることも、萬はいつしか清水から聞いて知っていたにちがいない。
  ▼
 大正15(1926)年7月17日
 東京市外雑司ヶ谷威光五二七 清水七太郎様  相州茅ヶ崎町 萬鉄五郎
 先日御報知下された二瓶氏の画室(、)家賃も丁度よいと思ふから借(ママ)して貰ひ度く思ひます。どうか先方に通知して置いて下さい。まかないも頼んだ方がよいと思ひます。よろしく願ひます、近日中上京の節寄りますが先方へよろしく願ます。(ママ) 少し忙しき事あり御返事遅れすみません。例の会の事其後考慮中ですがやッてもよかろうと思ふ、何れ御面会の節申上げます。
  ▲
 でも、萬鉄五郎は下落合へ来ることができなかった。同年の夏ごろから娘の病状が悪化したためか、あるいは二瓶アトリエにすぐ借り手がついてしまったためか、この話は立ち消えになってしまった。そして翌1927年(昭和2)5月、萬は娘のあとを追うように41歳の若さで急死してしまう。
 

 清水七太郎は、目白中学校Click!でほかでは見られない独特な美術の授業を行なっていた。保坂治朗様Click!からお送りいただいた貴重な資料、2003年(平成15)に出版された柴橋伴夫『青のフーガ 難波田龍起』(響文社)から、当該箇所を引用してみよう。
  ▼
 目白中学校に赴任してきた美術教師清水七太郎は、ユニークな指導方法をとった。戸外でのスケッチの他、レコードを聞かせて自分が自由にイメージした想念を絵に描かせた。清水の横顔を紹介しておきたい。盛岡市生まれ。盛岡中学校卒で、啄木の五年後輩、宮沢賢治の六年先輩であった。東京美術学校を卒業し、春陽会を経て、自由美術家協会会員となった。難波田は、その人柄について、「生活にも制作にも、或は教壇の仕事にも、自己のすべてをそれらに打ち込む詩人」と評している。その絵は、「神秘主義的で、何か精霊の言葉」を暗示していると形容している。清水は、三八年間文化服装学院に勤務して、絵画・デザインを教え、また学生を訓導し、名物教授といわれた。また日本の服装界に対してデザイン教育の必要性をはじめて説いた先駆者でもあった。
  ▲
 保坂様によれば、目白中学校Click!における清水の教え子には、洋画家・難波田龍起をはじめ、小津安二郎Click!映画の美術監督・浜田辰雄、彫刻家・片山義郎などがいる。また、清水は「赤い鳥」Click!(赤い鳥社)へ挿絵なども描いている。ちなみに、難波田龍起の父親である元軍人の難波田憲欽は、目白中学校の創立時のメンバーであり、同校の書道教師をつとめていた。
 
 萬鉄五郎が借りたがった下落合584番地の二瓶アトリエだが、萬の代わりに入居したのは洋画家・江藤純平Click!だった。江藤は、それまで落合府営住宅Click!3号24番=下落合1586番地に住んでおり、1926年(大正15)発行の「下落合事情明細図」にも記載が見えている。翌1927年(昭和2)、江藤は第三府営住宅のおそらく借家から二瓶アトリエへと転居し、1929年(昭和4)に長崎町大和田2027番地の伊藤廉アトリエへと引っ越すまで、下落合で暮らしていた。

◆写真上:萬鉄五郎が借りたかった、下落合584番地の二瓶等アトリエ跡。
◆写真中上:左は、ちょうど下落合の二瓶アトリエを借りたがっていた1926年(大正15)の夏、茅ヶ崎海岸で日光浴をする萬鉄五郎。右は、晩年に撮影された清水七太郎。
◆写真中下:上左は、1912年(明治45)に制作され切手にもなって広く知られている萬鉄五郎『裸体美人』。上右は1917年(大正6)に描かれた萬鉄五郎『もたれて立つ人』。下は、1923年(大正12)制作の茅ヶ崎へ転居後の作品『高麗山の見える砂丘』。わたしもこのような角度から、大磯Click!の裏山である高麗山を見て育ったけれど、茅ヶ崎とは異なりもっとグッと間近に迫る山影だった。
◆写真下:左は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる、清水七太郎が住んでいたころの雑司ヶ谷威光界隈。右は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる、落合府営住宅3号24番で収録された江藤純平アトリエ。