なぜ、これほど重要かつ決定的な文面を、いままでどなたも取り上げず、また佐伯の書籍や図録などで公開されないできたのだろうか? 1920年(大正9)の暮れ、佐伯祐三Click!は東京になどおらず、大阪の実家・光徳寺Click!に帰省していた。しかも、文面から推察するとかなり早い時期から大阪へ行きっぱなしであり、ようやく暮れになって礼状をしたためている。もちろん、同年9月に亡くなった父・佐伯祐哲の相続手続きなど残務処理を兄弟で進めるためだと思われるが、この時点で佐伯は分与された父親の遺産を、結婚したばかりの米子夫人Click!と住む家を建てるのにつかうか、それともフランスへ留学するための費用に当てるか、いまだ迷いに迷っていたのだ。
 すなわち、1920年(大正9)12月の時点では、下落合へアトリエ+母屋Click!を建設する工事の着手はおろか、山上家が地主Click!だった下落合661番地を自邸建設の敷地とすることさえ、まったく決まっていなかった可能性が高い。おそらく、最初は遺産のつかい道について兄の祐正Click!へ相談したとみられるが、祐正はこの時点で家を建てるよりもフランスへ行け・・・と奨めている。ところが、母親や親戚の人々は兄とは異なり、渡仏はせめて東京美術学校を卒業してからにしろ・・・と、佐伯を押しとどめている。佐伯自身は、家を建てるのではなく、フランス行きへ気持が傾いている様子までが、自身の筆で記されているのだ。この迷いに迷っている状態をハガキに書いて相談したのは、当時池袋1125番地に住んでいた親友の山田新一Click!だった。ちなみに、大阪の佐伯は山田の住所を「1025」と誤記しているが、ハガキは無事にとどいている。
 1920年(大正9)12月2日付あるいは12月24日付の、佐伯祐三から山田新一へあてた1銭五厘のハガキは、わたしの記憶する限り、これまで一度も取り上げられたことも、また公開されたこともない。わたしには消印が24日と押されているように見えるが、ハガキを所有し管理されている方のキャプションには、「1920年12月2日」と記載されている。しかし、スタンプの「2」と印されたうしろに、まだかなりのスペースが残り、PCで高精細にスキャニングした画像を拡大すると、ハガキの模様から「4」のアタマの部分がのぞいているようなので、わたしには「12月24日」のように解釈できるのだ。佐伯の資料としてはきわめて重要な文面だと思われるので、以下にハガキの全文を改行そのままの姿で引用してみたい。なお、( )内は引用者が挿入した註釈だ。
 
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 山田(ヨゴレ/君?)小生出発の際に甚だ御迷惑をおかけして申
 し訳けがございません(。) 早速御礼状と思ひつつ例の
 小生の事故(ことゆえ)つひ永らく延びてしまひました(。)
 まだ気も落ちつかず毎々考へ続けてゐます(。)
 兄は家を建てる事は老郷(ママ/老境)に入るのもとなればとて
 外国行きをすすめるのです(。) フランス行きを
 決行しようと思ってゐますが親類のものや母が
 せめて学校を出るまで日本にをれと申しますので
 それも考へてゐます(。) それからいつか御暇の節、里見
 さんに御会ひになったらきけるだけきいておいて下さい(。)
 日本の金をフランスの金になほす利不利の
 事なんかもね(、)知らせたら(ママ)知らせて下さい(。)
 義子さんにいつもの無礼をおことわり下さい(。)
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 ハガキの表裏の画像自体を、ぜひともご紹介したいのだけれど、お約束なので文面引用のみにとどめたい。ほどなく、同ハガキは公的機関から画像とともに公開される予定になっている。このハガキの「発見」により、いままで佐伯祐三に関する書籍や図録などの年譜に記された、1920年(大正9)に自邸建設をスタートしている、あるいは1921年(大正10)の初頭に自邸とアトリエが完成しているとする記述は、やはり時期が早すぎて明らかな誤りだと思われるのだ。1920年(大正9)の暮れも押しつまった時期、フランスへ行こうか家を建てようか大阪で迷っていた佐伯に、下落合の借地を物色して下落合661番地に敷地を決め、アトリエや母屋の設計図などを描いて大工に依頼し、工事をスタートさせることなどありえそうもない。相変わらず、本郷の向ヶ丘弥生町から下落合の借家Click!へ転居したままの状態だったように思えるのだ。
 しかも、佐伯はフランス行きに心がだいぶ傾いていたようで、池袋の山田新一に「里見さん」へフランスの様子を訊いてみてくれるよう、当時の通貨レートさえ意識しながら依頼している。「里見さん」とはもちろん、のちに1930年協会Click!で一緒になる里見勝蔵Click!のことで、当時は山田の住居にほど近い池袋に住み、近々渡仏する計画でいることを佐伯は知っていた。いまだそれほど親しくなかったせいか、佐伯は「里見君」とは記していない。ちなみに、このとき里見勝蔵は父親が亡くなったので隣りの京都へ帰省していたはずなのだが、文面から佐伯はそれをまだ知らない様子だ。
 
 そもそも、このような年譜表記の錯誤は、兄・祐正が1929年(昭和4)に出版された『画集佐伯祐三』Click!(1930年叢書)へ寄稿した年譜や、佐伯米子が1955年(昭和30)発行の『婦人の友』Click!および1957年(昭和32)発行の『みづゑ』Click!に掲載した年譜に起因していると思われる。朝日晃も『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画)で指摘しているように、この年譜は起きたエピソードが前後に1年間ずつなぜかズレている記述が多い。義父・祐哲の死を1919年(正しくは1920年)、義弟・祐明の死を1920年(正しくは1921年)、佐伯祐三との結婚は1921年(正しくは1920年)、佐伯の美校卒業が1922年(正しくは1923年)、長女・弥智子の誕生が1923年(正しくは1922年)・・・というように、年代の記憶が非常にあやふやで混乱しているのだ。せめて佐伯の誕生日を間違えたり(兄・祐正)、結婚年や娘の生年を間違えないでほしい(妻・米子)ものだが、これが佐伯年譜の出発点となったせいか、いまだに記述が混乱しているように思える。
 山田新一が、佐伯が下落合へアトリエ+母屋を建てたのは1921年(大正10)と断定的に記述しているのは、このハガキが手元に存在していたからだと思われる。また、記憶力に優れた曾宮一念Click!が、佐伯アトリエについて1921年(大正10)建築としているのは、自身のアトリエと同時期に建てていたからであり、また佐伯夫妻がアトリエのカラーリングを見学Click!に訪れた1921年(大正10)4月(ときに夏か秋と表現)には、いまだ佐伯邸が建設中であることを認識していたからだろう。この時点で、佐伯邸はいまだ早い段階の普請中だったかもしれず、また曾宮邸Click!へ立ち寄ったのは借家から下落合661番地の建設現場を見学に訪れた、帰り道のことかもしれない。
 当時の住宅建築に要するリードタイムからすれば、1921年(大正10)早々に大阪から東京へともどって、土地探しや大工探しをスタートし、家の図面を起こして大工に手渡したとしても、4月の時点ではそれほど工事が進捗していたとは思えない。また、3月には弟・祐明の死去により、佐伯夫妻は再び大阪へと逆もどりしているので、よけいに工事ははかどらなかったように思える。しかも当時、落合界隈は住宅建設が盛んに行なわれており、大工や左官はあちこちで引っぱりだこだったはずだ。早々、手すきの大工が都合よくすぐに見つかったとも思えず、地元ではなくわざわざ大磯の大工を探し出して建設を依頼しているのも、そのような事情を想定できる。つまり、右から左へ建築を依頼できる状況ではなく、佐伯は大工探しの段階から苦労したのではないかと思われるのだ。
 そして、普請を依頼した大工が新築祝いと歳暮とを兼ねた、鉋(カンナ)Click!を佐伯のもとへとどけるのは1921年(大正10)の暮れであり、1920年(大正9)の暮れとされている記述も誤りだ。つまり、中元ではなく歳暮を贈ったということは、1921年(大正10)の後半まで建設工事が継続していたことを示唆している。佐伯邸が完成したのは、同年の夏以降である可能性がきわめて高い。
 
 先日の「佐伯祐三-下落合の風景-」展Click!の図録Click!年譜では、佐伯が下落合に自邸を建設したのは、1921年(大正10)の最後の項目として入れられている。でも、佐伯祐三アトリエ記念館Click!に展示されている年譜では、従来のとある年譜の記述そのままに、1921年(大正10)初頭に自邸が建設されていることになっている。(爆!) このハガキの「発見」により、ぜひアトリエの展示パネルも、図録の記述に合わせ1921年(大正10)の最後の項目にしていただきたいと思う。

◆写真上:1985年(昭和50)に撮影された佐伯邸母屋2階の西側廊下で、突き当りが2階和室の押入れ。佐伯はカンナで床板まで削っていたようだが、この写真からはその痕跡を見いだせない。
◆写真中上:左は、同年に撮影されたアトリエの基礎部。右は、同じくアトリエ西側に接した増築洋間の基礎部。ともに、大正期からほぼそのままなのでだいぶ腐食が進んでいた。
◆写真中下:左は、1920年(大正9)12月の時点ではフランス行きを反対していた母・佐伯タキ。右は、1921年(大正9)にフランス行きを計画していた里見勝蔵。
◆写真下:左は、1911年(明治44)から発行されていた1銭5厘郵便ハガキの消印部で、佐伯祐三の山田新一あてハガキはこれと同一のものに書かれている。右は、1920年(大正9)暮れのハガキに先立つこと5ヶ月ほど前に書かれた、7月17日付の佐伯から山田への手紙。