すべては、2006年1月の1本の電話からスタートした。中村彝アトリエClick!(鈴木誠Click!アトリエ)にお住まいの鈴木様より、手紙とブログの出力ページを読んだ旨、ご連絡をいただいた。手紙の内容は、彝アトリエの保存に関することだった。でも、手紙を差し上げた鈴木正治様ではなく、電話は奥様からだった。三春堂さん経由で、上田節子様よりご連絡をいただいてのお電話だった。鈴木正治様は、手紙を受け取られた直後に倒れ、ほどなく急逝されていた。わたしが手紙を差し上げてから、11ヶ月余の時間が経過していた。
 下落合では最古老のおひとりである松尾徳三様Click!のお宅へお邪魔して、アトリエの保存について松尾様がお電話を、わたしが手紙を鈴木様へ差し上げてみようとお話したのは、2005年の厳寒2月のことだった。まだ、このサイトをスタートさせてから3ヶ月ほどしかたっていないころのことだ。松尾様は何度か電話をかけ、またアトリエを実際に訪問くださったのだが、どうしても鈴木様とコンタクトをとることができなかった。わたしが手紙を差し上げてから、かなりの時間が経過してしまったので、松尾様もわたしも諦めかけていたときの、奥様からの電話だった。
 鈴木正治様の勤務先で遺品の整理が行われた際、手紙はデスクの引き出しから見つかったそうだ。引き出しに仕舞われていたということは、きっとご連絡をくださるおつもりだったのだろう。中村彝のアトリエ保存に関しては、松尾様たちとともに小野田区長時代の新宿区へ再三にわたって要請され、ときに林芙美子邸の保存と重なってダメになり、ときに区の施設である「ことぶき館」がすぐ近くにあるからという不可解な理由でダメになっても、その保存を終生願いつづけてこられた鈴木正治様にお会いする機会を、わたしは永久に失ってしまったことになる。でも、代わりに奥様がご遺志を継いで、わたしに電話をくださったことから、アトリエ保存へ向けた活動が少しずつ動きだした。さっそく、アトリエ内外を拝見して写真に収め、いろいろな資料づくりや記事づくりを進め、このブログへの掲載や郵送を通じて、さまざまな方面へと送らせていただいた。
 
 まず幸運だったのは、わたしが小道さんClick!や三春堂さんと知り合いになれていたことだ。奥様にご案内いただき、アトリエを拝見したその日にも、すぐに彝アトリエを大きくフューチャーした写真展のアイデアが浮上した。小道さんは、各地に残る近代建築を記録して建築団体へ登録しつつ、「まちかどの近代建築写真展」を日本全国で開催されており、写真展はお手のものだったし、三春堂さんは下落合でギャラリーを運営されている。彝アトリエばかりではなく、目白・下落合界隈に残る貴重な建物の写真展にしようと、お話はすぐにまとまってしまった。彝アトリエが現存することを、地元の目白・落合地域をはじめ、広くアピールするには格好の企画だった。当時のメールフォルダを見ると、ほとんど2005年の暮れから2006年いっぱいにかけて、中村彝アトリエを中心にこのテーマのメールが大量に飛びかっていたのを懐かしく思い出す。
 小道さんとわたしは3ヶ月近くにわたり、せっせと目白・下落合じゅうをめぐりながら、写真撮影とマップづくりClick!を進めていき、目白バ・ロック音楽祭からの全面的なご協力もいただけた。こうして、2006年6月に「目白・下落合歴史的建造物のある散歩道」写真展Click!が開催され、会場には早々に中山新宿区長Click!もみえた。聖母病院のチャペル前で、区長に偶然お会いしたときにもお話させていただいてたので、彝アトリエ保存の案件は確実に区長へも認知されただろう。翌年早々、「中村彝アトリエ保存会」Click!(今井茂子事務局長)の発足とともに、本格的な保存活動へとつながっていった。アトリエでオシャレな演奏会が開かれたのも、ちょうどこのころのことだ。その後、彝アトリエの保存に賛同していただいた方は、実に3,443名と全国的な規模にのぼった。「保存会」をはじめ、地元の方々の区への熱心な働きかけも大きな力となった。
 もうひとつの幸運は、「下落合みどりトラスト基金」Click!を通じて、区の文化事業に熱心な、根本二郎議員Click!と知り合えたことだ。根本議員にアトリエを見ていただき、いろいろな資料をお渡しすると、すぐにも中村彝ゆかりの新宿中村屋や中村彝会、彝のふるさとである茨城県や茨城県立近代美術館、水戸市などへ連絡を入れてくれた。わたしが唖然とするほどの、ものすごい行動力だ。実際に水戸へも、何度となく調査や取材で出張されている。おそらく議会や区長室へも、大きく働きかけてくださったのだろう。こうして、アトリエは四度目の正直で、ついに保存へ向けて大きく動き出すことになった。今月の7月3日で、中村彝は生誕123周年を迎えたばかりだ。アトリエの保存事業と連携した、新宿区では初めてとなる中村彝の作品展覧会も、夢物語ではなくなってきた。


 区の資料によれば、土地の取得(一部は賃貸)により「中村彝アトリエ記念館」(仮称)として運営していくとのことだが、もっとも大きな課題は、どのような形状でアトリエ自体の修復あるいは再築をしていくか、つまり何年現在のアトリエの姿で再構築するのか?・・・だろう。関東大震災のとき、アトリエの東側の壁が崩落Click!して、中村彝は岡崎キイとともに鈴木良三宅へ避難Click!しているが、震災以降に増改築された姿なのか、それとも建設当初の姿なのか、資料室や展示室はどのような建築あるいは企画にするのか・・・、いろいろと考えなければならない課題が山積していると思う。特に、彝アトリエのドアなどには、彝自身がなんらかの絵をペインティングClick!した形跡が顕著なので、壁にうがたれ作品に繰り返し描かれた、いくつかの壁龕(へきがん)Click!の復活とともに、ぜひそれらの精密調査も同時に進めていただければと思う。
 また、彝アトリエを取り巻く濃い屋敷林はとても貴重なので、できるだけ伐らずに1本でも多く残してほしい。中でも、庭の中央に大きく成長したアオギリClick!は、彝自身がアトリエ建築時(1916年)に植木屋へ注文して庭先に植えたと思われ、鳥かごを吊るした作品などにも何度か登場している、かけがえのない“遺品”そのものだ。それでなくても、ここ20年の旧・下落合全域(中落合・中井2丁目含む)における緑地率の急低下は、新宿区内でもダントツで際立っている。少しでも緑が多く残る方法で、「中村彝アトリエ記念館」(仮称)の構想を進めていただければと思うしだいだ。
 
 これまで、アトリエの保存へ向けてご協力くださった、地元をはじめ全国のすべてのみなさん、ほんとうに長い間のご支援をありがとうございました。佐伯祐三と並ぶもうひとり洋画界の巨人、中村彝のアトリエが下落合に残ることになりました。改めて、心よりお礼申し上げます。

◆写真上:「わし、なんや知らん、めっちゃ嬉しゅうなってな~、中村センセClick!んとこ遊びに寄ったんや」、「ええと、キミは確か、サエキくん・・・だったかな? ボクの画室でわがもの顔しないでくれたまえ。キミの画室は、二瓶くんClick!の向こうの、牧野くんClick!や片多くんClick!や曾宮くんClick!や里見くんClick!のうんと先の、もっとずーっとあっちなんだからね」、「あのな~、ようやっとな、オンちゃんの署名、もろうてきたで」、「・・・遅い! ほら、カルピスあげるから、どうかウロチョロして仕事の邪魔しないでくれたま・・・、こ、こらっ! ・・・カンナClick!で、ボクの画室を削るんじゃない!」。
◆写真中上:左は、1980年代に撮影されたと思われる教育委員会の学芸員2名が調査に訪れた際の記念写真で、鈴木ご夫妻と教育委員会の学芸員のおひとり。右は、2007年(平成19)3月21日に彝アトリエで開かれたアトリエ保存コンサート。
◆写真中下:上は、鈴木家が佐伯アトリエからの転居直後、1929年(昭和4)ごろに撮影された彝アトリエ改築の様子。下は、彝アトリエ全体の建物の寸法を記録した敷地図の青焼き。
◆写真下:左は、彝の死去直後に撮影された画室のドアペインティング。右は、現在は巨木に成長した庭のアオギリで、1916年(大正5)に彝自身が植樹したと思われる。
★おまけ・・・さっそく「カフェ杏奴」で、ソミヤくんとともに喜びの記者会見をする中村センセ。