1923年(大正12)の前年度、つまり大正11年度の落合村の税収は、その50%が御留山(おとめやま)に住んだ相馬孟胤Click!からの納税だった。下落合の相馬家Click!につづき、上落合に邸宅をかまえていた大地主の高額納税者たちの名前も何人かあがっている。1923年(大正12)7月13日発行の読売新聞に掲載された、ルポ「市を取巻く町と村(13)」から引用してみよう。
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 約二万坪といふ村一番の大邸宅を構へて邸内に山あり川ありといふのは相馬孟胤子爵でその為村の税金の約半分を負担し所得税なども二万一千余円に及ぶ。上落合の小野田錠之助(五町歩) 宇田川半太郎(六町歩) 下落合のお寺薬王院(五町歩)などは大地主で地価の高騰で居乍らにして金の方から飛込んで来る種類の幸福な人達である。この金持寺の薬王院は本尊の薬師が行基菩薩の作で九寸の坐像、観音の一尺何寸といふ立像は運慶の作で江戸時代から有名なものだつたが二つとも何時の間にか無くなつてゐる。下落合のいま目白「文化村」のところは大正元年頃に坪一円から一円五十銭といつたもので此頃は先ず付近の畑でも坪四十円では手放すまい。字葛ヶ谷辺へ行くとそれでもまだ坪廿五円位のものはあるが字伊勢原辺となるともう五十円を呼ぶ。目白通りは先ず百廿円位が適当な値であらう(。)
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 御留山の西側つづきの薬王院も、大地主の「金持寺」と紹介されているが、いまでも落合地域の土地台帳をひも解くと、薬王院の所有地あるいは元・所有地の記載が、あちこちに散見される。
 

 また、同紙7月16日の「市を取巻く町と村(15)」では、御留山界隈の様子が紹介されている。
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 今は相馬子爵の所有になつて僅にそれと解る位にまで開墾されてゐるが下落合の富士(ママ)稲荷のうしろから西の方の稍(やや)高地になつてゐる処は昔徳川の放鷹地で時々は将軍のお成りなどもあつたものださうで今でも此辺を俗に「御禁止山」(ママ)と云つてゐる。同じ下落合に、もと泰雲寺といふ元禄以来の有名な黄檗宗の寺があつてその跡だけはわかつてゐるが寺その物は跡方(ママ)もなくなつてゐる。正徳時代の名尼として名の残つてゐる了然禅尼や儒者井上蘭台の墓のあつた寺だが維新前から殆ど草茫々の荒れ寺となり数年前に廃寺となつてぼろ寺は取壊し寺地は私有に移り遺骨だけは改葬(芝の瑞祥寺)したが墓碑はみんな其辺へうつちやられた。墓を掘つた時に発見した土器だの石鏃などだけは同所近くの平田竹次郎氏が未だに所蔵してゐる由である(。) 了然尼といふのは武家の妻女で尼にならうとしたが余り美しいと云つて許されないので焼火箸を顔へつけてその美しさを除きこの寺の開祖白道和尚の教を乞うた人で「いけるせにすてゝやく身やうからまし、終りの薪とおもはざりせば」といふ歌をよんださうだ。
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 この記事には、めずらしく泰雲寺の記述が登場している。泰雲寺は、現在の下落合駅の南側、ちょうど落合下水処理場のところにあった大刹で、その廃墟ではタヌキClick!ではなくキツネClick!が何度か目撃されたのでも有名なエリアだ。顔に焼け火箸を押し当ててまで、尼僧になりたかった美しい女性と聞いては放っておけないし(爆!)、『新風土記』や『江戸砂子』にも記録が残っているようなので、今度機会があれば彼女の物語を詳しく調べてみたい。
 このころから、落合村には「地面師」と呼ばれる、土地の売買をして利ザヤを荒稼ぎする輩が入りこんで、少しでも早くシャレた「文化住宅」街を完成させたい村の行政側を悩ませつづけている。前回ご紹介した近衛町Click!でも、土地はとうに売り切れているのに、なかなか住宅が建設されない現象が報告されていたが、この「地面師」=地上げ屋たちの介入をうかがわせる。目白文化村Click!でも、第三文化村が販売される1924年(大正13)ごろから、この傾向が顕著だった。近衛町と目白文化村は、開発が同時期なのにもかかわらず、目白文化村へ「地面師」が介入するのが遅かったのは、鉄道駅が近接しておらずそれほど値上がりするとは想定できなかったのだろう。同文化村の人気が沸騰するのを見て、第三文化村の分譲から“進出”してきたものと思われる。

 
 御留山の南側には、三越デパートClick!が早くから染物工場を建設している。現在の田島橋は北詰めClick!に建っている、大きな三越マンションの敷地全体が旧・染物工場の跡地だ。三越染物工場Click!は、排煙の出ない工場として、落合村から特別に建設を許されたようだ。以下、同紙の7月13日に掲載されたルポ「市を取巻く街と村(13)」から、再び引用してみよう。
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 近頃はこの土地の発展を見込んで所謂「地面師」といふのが入込んでゐるがそれ等の持地になると値の出る迄持つてゐるといふ調子だから草茫々としてゐても先ず百五十円から二百円でこれがまた落合にはざらにあるので村長(川村辰三郎氏で廿五年の勤続者)などこぼし抜いてゐるが仕方ない。一体(ママ)落合は水がよくて戸塚との境界の上水縁には三越の染工場があり鴨川以上の水質とされてゐる程だし全村南に傾斜した高地で村是として「煙を出す工場」を村へ入れぬ事になつてゐるので近郊住宅地では屈指の処だからよく方々で目をつける。同じ営利会社の仕事でも流石は二千万円の大会社丈に箱根土地会社の経営する「文化村」は其模範的なものとして推賞されてゐる。
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 なんだか最後は、箱根土地と堤康次郎の提灯持ち記事になってしまっているようだ。
 
 この時期、近衛町の南側には大黒葡萄酒工場Click!(メルシャンワイン)も進出しているはずだが、同工場もワインを樽から瓶へ詰めるだけの「煙を出す工場」ではなかったので、村政側から建設を許されていたものだろう。しかし、大正末から昭和初期になると、旧・神田上水や妙正寺川の河岸には、煙突をともなうさまざまな工場が進出してくることになる。
 排煙のある工場は村へ入れないという、「村是」を掲げていた落合村も、東京市街地から押し寄せてくる時代の趨勢には勝てなかったのだろう。そのきっかけとなったのが、この記事が書かれてから1ヵ月半後、すなわち9月1日に起きる関東大震災Click!だったのは言うまでもない。

◆写真上:1913年(大正2)に御留山へ建設された、相馬孟胤子爵邸を谷戸から見上げる。
◆写真中上:上は、御留山の現状。下は、おとめ山公園が約1.7倍まで拡大される近未来の計画図。地下水脈の保全と湧水源の水量確保、グリーンベルトを意識した緑地の拡大、旧・相馬邸の庭石の保存など多彩な文化的テーマが計画され、相馬邸時代の風情に近づこうとしている。
◆写真中下:上は、1923年(大正12)7月13日発行の、読売新聞に掲載された「市を取巻く街と村(13)」記事。下は、高額納税者として記事に名が掲載された相馬孟胤(左)と薬王院(右)。
◆写真下:左は、松本竣介Click!『ごみ捨て場付近』(1942年/部分)に描かれた田島橋と三越染物工場(左端)。右は、1926年(大正15)9月に制作された大黒葡萄酒の新聞広告。