以前に、下落合で起きた「ピストル一平事件」Click!(ピス平事件)について書いたところ、古老の方から「当時の巡査はピストルを携帯していなかったので、奪われるということはなかったと思う。もっとも、護送で武装したのかもしれないが」・・・というコメントをいただいた。はたして、その通りなのだ。戦前の巡査は、サーベルは下げていたけれど、拳銃は常時携帯していなかった。交番における身体検査を拒否し、ポケットに拳銃を隠し持っていたのは、「ピス平」こと犯人の中村一平だった。気になっていたので、この事件を当時の報道から詳しく追いかけてみよう。
 まず、1928年(昭和3)9月10日(月)の深夜、「ピス平」が呼びとめられて不審訊問を受けたのは、下落合1547番地近くの路上、つまり落合第三府営住宅Click!近くの目白通り沿いだ。最近ご紹介した、前田寛治Click!が2年ほど前に住んでいた場所にもほど近い。いかにも挙動不審だったらしく、自転車で付近を巡回していた渡辺静夫巡査は、さっそく下落合派出所(現在のピーコックストア横の旧交番)へ任意同行を求めた。このとき、渡辺巡査は大原派出所(文化村交番)へ立ち寄ったあと、目白文化村から府営住宅をまわり、目白通りへ出たところだったのかもしれない。以降の経過を、翌1928年(昭和3)9月11日発行の、東京朝日新聞に掲載されたリード部分から引用してみよう。
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 十日午前二時二十五分戸塚署詰め府下落合町下落合交番巡査渡辺静夫(二八)氏は巡回に行つての帰途、同町一五四七正金銀行員奥村敬五郎氏方前で麦わら帽子、黒のアルパカ、しまのズボン、黒靴を穿いた年齢四十四、五歳位一見会社員風の挙動怪しい男を発見、一まづ交番で取調べの後戸塚本署に連行の途中、右怪漢は突然ポケットからピストルをだし渡辺巡査をそ撃し同巡査のこめかみから脳天を撃抜き即死せしめそのまゝ闇にまぎれて逃走した。丁度下落合の交番に立つてゐた同僚の栄清(二八)巡査がこの怪しい物音に不審を抱き自転車で駆けつけて見ると先ほど交番を出たばかりの渡辺巡査が血に染つて即死してゐたので驚き直に本署に急報したので渡部戸塚署長を始め警視庁からは白井警務課長、小林監察官、中村捜査課長、出口同係長、田多羅警部、地方裁判所からも判検事が急行検視を済まし、同六時帝大に死体を送る一方市内各署に打電非常線を張り犯人の追跡に努めたがまだ行方は判明しない
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 同僚の栄清巡査を残し、下落合交番を出た渡辺巡査は、自転車を押しながら「ピス平」を連行している途中、七曲坂Click!の手前(北側)のおそらく三輪邸Click!の前あたり、下落合363番地の路上で、犯人が隠し持っていたブローニング22口径の拳銃で、右のこめかみを撃ち抜かれて即死した。この銃声は、当時の静寂な下落合では、目白通りの交番までとどいていたのがわかる。銃声を聞いた栄巡査は、自転車で林泉園Click!の西側を走りぬけ現場へ急行している。
 渡辺巡査の下落合交番における30分前後の取調べで、中村一平は下落合1547番地の奥村家との家庭間の問題だから(つまり民事の問題だから)、巡査が関わるべきではないと繰り返し、同巡査が行おうとした身体検査も拒否している。だが、事実は奥村家とはほとんどなんら関係がなく、同家の情報を手に入れた中村が因縁を付けにきたのだ。この間、栄巡査は交番外で立ち番をしていたので、男と渡辺巡査との詳細なやり取りは聞いていない。栄巡査の証言を聞いてみよう。
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 渡辺君は極くおとなしくまじめな男で僅かな給料から国元にも送金してゐた位でした。身体は小柄だがガツシリしてゐて何でも陸軍で下士を志願してゐるうちに体が悪かつたので警察に入つたのでした、事件が起つた時は私が立番をやつてゐると渡辺君が白のしまのズボンに黒のアルパカ服、麦わら帽をかぶつた男をつれて来て約三十分程取調べました(、) しかし自分は外で立番して居たので詳しい事は判らぬが不審なのは何も持物がなかつた事です。(中略)二人が出かけて五六分してからヅドンといふ位な小さい音がした、変だと思つて自転車で行つて見ると渡辺君が血にそまつて倒れていたので驚きました(、) 現場は大きな邸ばかりで非常にさびしい所です
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 栄巡査は暗に、われわれは「僅かな給料」で生命を賭して仕事をしているんだよ・・・というようなニュアンスの言質を、興奮していたのか記者にはからずも洩らしているけれど、つい薄給の警察に対してグチを言いたくなるほどの身近な恐怖で、ショッキングな出来事だったのだろう。射殺された渡辺巡査は、この事件で巡査部長へ「昇進」し、いまだ独身だったため都合1,720円の弔慰金が両親あてに支払われている。また、明治通り沿いの戸塚警察署には渡辺巡査の銅像が造られ、戦前には下落合の多くのみなさんが目にしている。
 下落合から消えた「ピス平」こと中村一平は、一帯に非常線が張られていたにもかかわらず、まったく行方がつかめなかった。警察官が犠牲になった事件でもあり、警視庁では必死に捜索をしたようだが、翌9月11日になっても「ピス平」の居どころは不明のままだった。9月12日の新聞各紙には、三面の片隅に「犯人は行方不明」のベタ記事が小さく出ているだけだ。
 
 ところが、「ピス平」は警察の非常線をまんまとかいくぐり、次は湯島天神に姿を現すことになる。そして、警察と東京市民とが入り乱れての大事件に発展していくのだ。
                                                  <つづく>

◆写真上:1928年(昭和3)9月13日の東京朝日新聞に掲載された、不忍池で逮捕直後の「ピス平」こと中村一平。両脇は私服刑事だが、いろいろな職種の人物に変装していたのがわかる。
◆写真中上:上は、同年9月11日の東京朝日新聞。下は、同年9月14日の読売新聞
◆写真中下:左は、マスコミの取材攻勢に奥村夫妻が身を寄せた小石川水道町の実家・奥村邸門前。右は、事件の発端となった下落合1547番地界隈にいまでも残る戦前の近代建築。
◆写真下:左は、殉職した渡辺静夫巡査。右は、発砲事件が起きた下落合363番地の現状。