洋画家・小松益喜(ますき)というと、すぐに神戸の異人館街や旧居留地をえがいた画家としてのイメージが圧倒的だ。小松の「下落合風景」など、誰も思い浮かべないはずなのだが、高知生まれの彼が絵画を勉強するために、東京美術学校へ通っていたときの住まいが下落合なのだ。もっとも、下落合のどこで暮らしていたのか、住所がどうもハッキリしない。
 1923年(大正12)に、両親の反対を押し切って上京した小松は、川端画学校で藤島武二Click!に師事している。2年後の1925年(大正14)に、東京美術学校へ合格するのだが、そのころから下落合に住みはじめていたらしい。小松は東京へやって来る前、地元の高知でも近所の風景を写生してまわっていたが、下落合でも同じように自身の住まい周辺を作品に描き残している。
 したがって、小松の「下落合風景」は昭和初期の下落合を写しており、大正末から昭和最初期にかけて描かれた、佐伯祐三Click!の『下落合風景』シリーズClick!とは、その光景や風情に連続性が感じられるのだ。ただし、小松の「下落合風景」作品は現存数が少ないようなので、彼が当時の下落合で見られた風景の、なにを好んでモチーフに選んでいたかはサンプル不足でよくわからない。だが、少なくともかなりの先輩とはいえ、佐伯作品を意識していたことは間違いないようだ。佐伯の影響という言い方に語弊があるとすれば、1930年協会を中心に当時の画界で注目を集めていた、フォーヴィズムに惹かれていたことをうかがわせる筆致をしている。
 
 冒頭の作品は、1927年(昭和2)に制作された小松益喜『(下落合)炭糟道の風景』だ。炭糟とは石炭ガラ(かす)のことで、雨が降るとぬかるんだ当時の土道へ、舗装代わりに撒かれていたものだ。もう少し時代が下ると、舗装代わりに撒かれるのは河原の砂利や小石になるが、大正期から昭和初期にかけては石炭ガラが活用されていたようだ。「炭糟道」といっても、どのような道にも撒かれたわけではなく、比較的交通量の多い、特に自動車が往来する街道や主要道が選ばれたらしい。下落合界隈における当時の主要な道路としては、目白通りClick!(練馬街道)と目白崖線下を通る雑司ヶ谷道Click!(鎌倉街道=新井薬師道)の2本が、すぐにも思い浮かぶ。
 『炭糟道の風景』に描かれた道は、おそらく7~8mほどの道幅をもったかなり広めの通りなので、主要道の1本に間違いないだろう。地形は、画面の右手から左手へ少し下り傾斜のように描かれ、道路沿いには太めの杭が規則的に打ちこまれている。今日でいうガードレールの代わりであり、クルマの通行がわりと多めな道路とみて間違いなさそうだ。だからこそ、雨が降るとぬかるんだ泥道となり、タイヤが取られるのを防ぐために、石炭ガラによる簡易舗装がなされたのだろう。まるで佐伯作品のように、電柱Click!が目立って描かれているが、右手に建っているのが電燈線柱、左手の2本のうち左側の横木が3本わたされたものが電信(電話線)柱だろうか。正面にはチャペルのような、ややモダンな建物が描かれ、画面左にもやや低い位置に家々が何軒か建っている。
 
 気になるのは、画面右手に描かれた樹木の上に、ポツンと突き出た“ふくらみ”だ。カラー画像ではないので、なんとも判断がつきかねるのだが、他の木々に比べひときわ背の高い樹木を描いたようには思えない。どことなく、人工物のように見えるのだ。ひょっとすると、下落合に散在していた火の見櫓(の最上部)のひとつなのかもしれない。光線の位置は、いまいちハッキリとはしないけれど、家々の影からみるとほぼ真上から当たっていそうだ。
 さて、この風景が下落合のどこを描いたものか、残念ながら明確に特定することはできない。当初は、画面の右手が上がり気味で、左へいくにしたがって下がっている地勢から、雑司ヶ谷道の大倉山Click!下のカーブ道を想定した。道なりに左へカーブしていくと、ほどなく正面に氷川明神社の境内が姿を見せ、道路の左側には氷川前交番が見えてくる。そう、当時このあたりは、開通したばかりの西武電鉄の下落合駅前Click!に当たる一帯だったのだ。中央に描かれている建物は、キリスト伝導隊の「活水学院」校舎の一部ということになる。
 しかし、目白崖線上の練馬街道(目白通り)にも、このように左手(南側)が下がり気味の地形は随所にあり、また目白駅の近くではない目白通り、すなわち高田大通りClick!と呼ばれた広い道幅の部分を除き、西部の目白通りでさえ『炭糟道の風景』のような光景は、いまだあちこちで見られていただろう。雑司ヶ谷道と目白通り、いずれかの情景である可能性が高そうなのだが、わたしの感触としては、このようなカーブをみせる当時の目白通りの地勢や風情と、描かれた画面のそれとが一致しにくいため、目白崖線下に沿って通う雑司ヶ谷道のような気がするのだが・・・。

 大正期から昭和初期に出版された本や雑誌を見ていると、あちこちに「石炭クレオソート」の広告が目につく。もちろん、木造住宅の外壁や塀などに塗って、防腐・防水処理をするためのものだが、コールタールにも似たその消毒臭Click!は現在の下落合でも、ときおり風に乗って近所から漂ってくる。画面に描かれている木製の電柱や、道の両側に打ちこまれた木杭にも当然、クレオソートは塗布されていただろう。『炭糟道の風景』を見ていると、炭糟といいクレオソートといい、当時の濃厚に石炭臭が漂う下落合の空気感を、強く感じることができるのだ。

◆写真上:1927年(昭和2)に、下落合で制作された小松益喜『炭糟道の風景』。
◆写真中上:小松益喜といえば、神戸の異人館作品であまりにも有名だ。左は小松益喜『古風な門・古風な家』(1936~1937年)で、右は同『リプトンとウィルキンソン』(1982~1983年)。
◆写真中下:左は、1930年(昭和5)に撮影された目白福音教会Click!前の目白通り。右は、想定できる描画ポイントのひとつで雑司ヶ谷道(新井薬師道)の大倉山の下あたり。
◆写真下:1922年(大正11)に西村工業が作成した、「エヌクレオソート」の媒体広告。