落合地域で起きた“事件”を、新聞記事でたどりながら見てくると、中には「どうして?」というような不可解な出来事も記録されている。たとえば、葛ヶ谷(西落合)のオリエンタル写真工業Click!では、パトロールしていた巡査の指を食いちぎって逃走した男がいる。新聞では、いまだ「落合村」とされているが、1924年(大正13)の2月からは町制が施行され「落合町」となっていたはずだ。1924年(大正13)12月22日に発行された、読売新聞の三面記事から引用してみよう。
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 巡査格闘して指を喰切らる/落合村の凶賊
 廿一日午前二時府下落合村久川駐在所巡査塩澤源定が管内オリエンタル写真会社裏を巡回中暗中から三十歳位の男が現れたので誰何すると矢庭に同巡査に飛び付き双方格闘を演じ巡査は左人差指を喰ひ切られ人事不省に陥つた隙に凶賊は逃走したが同人も右手に負傷したらしい
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 どうなっているのだろう、暗闇からいきなり男が出てきて巡査に飛びかかり、指を食いちぎって逃げてった・・・という事件だ。前後関係もわからなければ、男がオリエンタル写真工場の裏でなにをしてたのかも、またなぜ巡査を襲ったのかも不明な出来事のようだ。続報がないのでわからないが、おそらく犯人は捕まらなかったのではないかと思われる。
 どこの誰ともわからない女性が、おそらく飛び込みでもしたのだろうか、戸塚町の旧・神田上水(現・神田川)に浮かんだという事件もあった。財布と写真を胸に抱いていたというから、事件に巻きこまれたわけではなく覚悟のうえの自殺のようだが、おそらく上流から流れてきたのだろう、身元がなかなかわからなかったらしい。1924年(大正13)3月4日発行の同紙から引用してみよう。
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 もゝ割れ美人の溺死/落合川に浮上る
 三日午前八時半頃府下戸塚町上高松落合川の浅瀬に年齢十八九歳位(、)髪を桃割れにゆつて一見女給風の頗る美人が胸に自分が島田に結つた時の写真一葉と若干の金を懐いて溺死をとげて居たのを通行人が発見し、斯くと戸塚分署に届出た(。)同署から係官出張取調中だが死後八時間を経過して居り身元未だ判明しない
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 この記事で「戸塚町上高松」という地名だが、上高松という小字に聞き憶えがない。1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)にも採取されていないので、より古い字(あざな)か、あるいは下落合の「摺鉢山」Click!と同様に、明治期から大正初期にかけて地元のみで通用した地名なのだろうか? ここで留意したいのは、戸塚町に妙正寺川は流れていないので、旧・神田上水(神田川)のことを「落合川」と呼んでいる点だ。つまり、落合地域を流れている川を、それが妙正寺川でも旧・神田上水でも、大正期ぐらいまでは「落合川」と総称していた公算が高い。旧・神田上水が、改めて「神田川」と公に呼ばれるようになるのは、戦後の1960年代に入ってからのことだ。


 ささいなことから起きたケンカも、新聞ダネになっている。場所は目白文化村Click!を建築中の「大工場(だいくば)」、つまり普請大工の作業施設の中だと思われる。「大工場」は、中ノ道(下の道)Click!に面した下落合1800番地に建っていた。同紙1923年(大正12)1月14日号から引用しよう。
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 十三の小僧兄弟子を刺す/喧嘩を根に持ち
 十三日午後九時半(、)落合村下落合千八百番地文化村大工場で作業中の大工(、)大西為作の弟子久ヶ谷一(一三)は其兄弟子である魚沼宗作(二四)の下腹部に鑿(のみ)を突き立て(、)深さ腹膜に達する重傷を負はせ逃走したのを淀橋署にて取り押へ取調べ中だが(、)原因は昼間の口喧嘩を根に持つてだと
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 13歳といえば、まだ小学校を卒業して間もない年齢で、大工見習いの小僧として弟子入りをしたばかりだったのだろう。兄弟子の大工にひどいことを言われたか、あるいはふだんからイジメられたり、からかわれたりしていたのだろうか、夜遅くの作業とはいえ、だいじな仕事道具であるノミで刺したのだから、よほど腹にすえかねていたのかもしれない。
 1923年(大正12)の初め、大工たちが夜遅くまで残業をしなければ間に合わないほど、目白文化村の建設工事が立て込んでいたのも興味深いが、より注意を惹かれるのは文化村の作業小屋が村内ではなく、周辺域にまで設置されていた点だ。つまり、文化村での大工仕事は、住宅を建設する敷地の“現場”で作業が行われていただけでなく、別に「大工場」を設けてあらかじめ加工や組み立てのできる工程は、そこで効率的に工作されていた可能性が高い。
 これだけの規模の住宅街をいっせいに建設するためには、作業の効率化が追求されたことは想像に難くないが、交通の便がいい街道沿いに「大工場」を設け、そこで工作した資材をまとめて文化村の建設現場へ供給していたと思われるのだ。今日でいえば、住宅の一部をあらかじめ工場で組み立ててしまい、現場へいっせいに持ち込んですばやく建設する工法によく似ている。「大工場」は、中ノ道ばかりでなく目白通り沿いにも設置されていた公算が高いように思う。また、佐伯祐三Click!が描いた「雪景色(文化村スキー場)」Click!の尾根上に建つ細長い小屋Click!、ちょうど第一文化村の水道タンク北側に並ぶ住宅には見えない建物群も、やはり規模の大きな「大工場」のような作業小屋か、あるいは資材置き場の可能性が高いように思うのだ。
 
 最後に、豊多摩郡の女教師たちが結成した「女教員会」が、下落合へピクニックにやってきたほのぼの系の記事をご紹介しよう。豊多摩郡は、北は現在の新宿区や中野区から南は渋谷区から杉並区までの、かなり広い範囲のエリアだった。だから、「女教員会」には落合小学校から渋谷小学校までの女教師たちが参加している。同紙1920年(大正9)10月21日の記事から引用してみよう。
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 女教員達の芋掘会/落合村の畑で
 来る十月廿四日(日曜)豊多摩郡女教員会が、目白駅から程遠からぬ落合村で親睦と娯楽とを目的とした芋掘会を催します。之に就いて同会幹事渋谷小学校の花輪胤子女史は「豊多摩郡女教員会は同郡の女教員二百余名から成る団体で創立以来十年余になりますが、毎年春秋に催してゐる会には教育上の研究調査を主として発表したりするので、誠に堅苦しい会でございましたが、今度はちよつと風変りにお互に隔てなく胸襟を開いて語り楽しまうとしたのでございます。多分この方が却て私共女教員達の親睦には結構と思はれます。」と話されました
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 ・・・「わたくし、その日はあいにくと家の法事がございますのよ」とか、もっとあからさまな女教師は「せっかくの日曜だと申しますのに、あのような退屈で眠気をもよおす会合になど、わたくし参りません」とかいって、200人以上はいるはずの会員の出席率がかなり落ちていたのだろう。そこで、出席率の向上をめざし起死回生の企画として「芋掘会」はプランニングされたにちがいない。きっと、落合小学校の女教師か誰かClick!が、「花輪先生、みなさまを集めるのはおイモですわよ、おイモ!」とか進言して、「わたくしどもの学校の近所に、手ごろなおイモ畑がございますの。なんでも、来年になりますと畑を宅地にしてしまい、おイモ畑は今年かぎりらしいんですのよ。地主の山上様Click!へお願いすれば、ご了解いただけると思いますわ。養鶏場Click!が近くてちょいと臭いますけれど、ピクニックがてらみなさまでいらっしゃいませんこと?」と勧誘したのだ。渋谷小学校の花輪胤子幹事も、「わたくしも、実はおイモ掘りをしたかったところなんですの! ほほほ」と、さっそく賛同した。
 

 「秋はおイモ掘りにキノコ狩り、ギンナン拾いに柿もぎ大会、春はタケノコ掘りに山菜つみ・・・、落合小学校のまわりは、こんなのばかりでございますの。研究会の余興といたしましては、花輪先生、もってこいじゃございませんこと?」、「あ~ら、渋谷小学校だって負けてはいなくてよ。ときどき、お隣りの世田谷のほうから、ブタの川流れがあるのですもの。もうブヒブヒで、ブイブイ言わせてよ」、「あ~ら、落合ではタヌキClick!のバッケ転がりで、ポンポコリンのポンポコナでございますわ」、「・・・まっ、まあ、・・・落合は、おすごいこと」、「そうですわ、この際つまらない研究会などおやめになって、親睦会を中心にされてはいかがでしょうかしら。次回は、ブタ汁にタヌキ汁のお料理教室などいかが?」、「・・・まあ」、「あら、冗談でございますのよ。お~ほほほほ」。

◆写真上:いまでも落合地域のあちこちに残る、新聞記事の当時を髣髴とさせる野道の風情。
◆写真中上:上は、1932年(昭和7)に撮影された葛ヶ谷(西落合)のオリエンタル写真工業の本社および第二工場。下は、1924年(大正13)12月22日に発行された読売新聞の事件記事。
◆写真中下:左は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合1800番地界隈。右は、見晴坂の右手が目白文化村の「大工場」があった1800番地。
◆写真下:上左は、増水した神田川で左岸が戸塚町(現・高田馬場)、右岸が下落合。上右は、いまでも下落合に残った畑地に咲く菖蒲。下は、1920年(大正9)10月21日の読売新聞記事。