このサイトで「出前地図」Click!と表現してきた、1925年(大正14)1月作成の「下落合及長崎一部案内図」というマップがある。淀橋区が成立するはるか以前、大正期から下落合には丁目が存在していたことを記事に書いたばかりだ。おもに目白通り沿いの商店が、出前や御用聞きに使用したとみられるので「出前地図」と呼んできたのだが、地図の周囲に広告が掲載された既存の「出前地図」は、目白通りをはさみ下落合の“中央部”と長崎の“東部”地域であって、目白駅寄りのさらに東と、葛ヶ谷(西落合)寄りの西部が切れている。すなわち、東側では雑司ヶ谷旭出町(現・目白3~5丁目)と下落合1丁目(現・下落合3丁目)の一部がなく、西側では長崎から葛ヶ谷(西落合)と下落合4丁目(現・中落合)の半分が描かれていない。1925年(大正14)現在の目白通りは、すでに商店街がずっと奥まで伸びていたと思われるため、目白駅寄りの東部にも、また葛ヶ谷(西落合)寄りの西部にも、同様に「出前地図」が存在するのではないかと想定してきた。
 そして先日、ついにその西部版を見つけることができた。小出幹雄様Click!とともにテーラー双葉さんClick!へうかがった際、中沼伸一様がたいせつに保管されていた同地図の複写(青焼き)をお見せいただいたのだ。作成されたのは1925年(大正14)4月、つまり、上記の同年1月に作成された「出前地図」中央版につづき、わずか3ヵ月後に西部版が制作されていたことになる。地図の名称も、「下落合及長崎一部案内図」とまったく同一なので、これからは混乱を避けるため「下落合及長崎一部案内図」(出前地図)の中央版と、西部版というように呼び分けたい。
 西部版の範囲は、目白通りから練馬街道(現・南長崎バス通り)へと入る二叉路の手前から、東京府の風致地区だった葛ヶ谷(西落合)の葛ヶ谷分水/落合分水Click!が流れる谷間、長崎の「海上グラウンド」(野球場)の先までが網羅されている。そして、この地図にも「下落合四丁目」と丁目表記が見られる。描かれた範囲を当時の住宅地でいうと、下落合4丁目にあった府営住宅Click!の第一~第三号地(第四号地の一部)と目白文化村Click!の第一文化村、また下落合の飛び地だった自性院、さらに葛が谷まで、長崎側は字(あざな)でいうと大和田から五郎窪(久保)界隈までということになる。
 
 では、西部版に描かれた大正期の興味深い表記を見ていこう。まず、第一文化村には、すでに安食邸Click!が建設されているのが見える。のちに、会津八一Click!が引っ越してきて文化村秋艸堂Click!となる邸だ。1924年(大正13)の7月に撮影された新聞写真Click!などでは、まだ空き地の状態となっている同敷地なので、安食邸は同年の8月以降から建設工事がはじまり、翌1925年(大正14)の春ごろには、おそらく竣工あるいは完成間近だったことになる。
 次に、現在の二又交番のあたりに目を向けてみよう。現在の交番の位置には、なぜか鳥居マークが描かれているが、この場所には「二又子育地蔵尊」が奉られていた。現在も、同地蔵尊は元の位置から北西へ130mほど入った、路地の突き当たりに安置されている。二又地蔵尊の向かいには、ダット乗合自動車Click!のバス停と大正期の交番があったはずなのだが、省略または記載漏れだろうか? 交番の並びには、翌1926年(大正15)からダット乗合自動車の営業所が開設されるのだが、この時期には「旭組(徂)乗合自動車部」となっている。
 おそらく、「出前地図」西部版に広告を出稿していたのだろう、他店に比べてひときわ大きく描かれた「本多薬局」の西隣りには、同じく大きく描かれた「同志舎支店/凍氷販売店」がオープンしている。この店舗は、現在も江古田駅近くの千川通り沿いで営業をつづけているようだ。二叉路の先の目白通りに目を向けると、「小野田製油所」Click!も「小野田米店」Click!もすでに開店している。
 
 1925年(大正14)の当時、葛ヶ谷(西落合)へと向かう現在の目白通りよりも、長崎のバス通りのほうが道幅が広く、「目白バス通り」と呼称されていたようだ。西落合へと向かう目白通りは「葛ヶ谷通り(街道)」と呼ばれていて、当時の地図を見ても、また1936年(昭和11)の空中写真を見ても、長崎の「目白バス通り」のほうが道幅が広かったことがわかる。また、「出前地図」西部版を見ても、「葛ヶ谷通り」のほうは商店よりも個人邸がけっこう目立つが、「目白バス通り」のほうは、かなり奧まで商店街が形成されて繁華だったことがうかがわれる。
 店舗の種類を見ていくと、ありとあらゆる分野のお店がズラリと並んでおり、この道を歩けば生活に必要な食料品や日用品、雑貨、家具調度などがあらかた揃ったのだろう。同地図を保管されていた中沼様によれば、地元の長崎地域ばかりでなく、目白文化村や府営住宅など下落合側から、あるいはさらに遠くからも大勢のお客がみえたとのことだ。
 再び、下落合へと目を向けてみよう。現在の十三間通り(新目白通り)と目白通りが交差するあたり、長崎の野球場「海上グラウンド」の南に、「渋澤農園分譲地」の名称が見えている。おそらく、いまでは敷地を新目白通りに削られるか、その真下になってしまったエリアだと思われるが、この分譲地は初めて聞く名称だ。自性院や落合第二中学校の、やや東側に位置する敷地のように思われるが、かなりまとまった住宅造成地のような気がする。下落合の地番では1560番地界隈、葛ヶ谷(西落合)の住所では24番地界隈なのだが、おそらく文化住宅街をめざした宅地開発だろう。
 
 1925年(大正14)4月発行の「出前地図」西部版も、同年1月発行の中央版と同様、地図を取り囲むように制作費を供出した商店の広告が掲載されていたのだろう。そして、広告を掲載した商店は、地図にひときわ大きく描かれた手法もまったく同じようだ。また、中央版と同様、丁目や字(あざな)などが赤字で印刷された2色刷りだったと思われる。大正期の下落合と長崎を知るには、かけがえのない貴重な地図なのだが、こうなると目白駅寄りの“東部版”が、やはり気になってくるのだ。

◆写真上:「大正十四年四月十一日」の発行日が入る「下落合及長崎一部案内図」(出前地図)西部版の、第一・第二府営住宅から目白文化村(第一文化村)のあたり。
◆写真中上:左は、第一文化村の安食邸が描かれた界隈。右は、二叉路の子育地蔵尊の界隈。
◆写真中下:左は、目白通り(左)と南長崎バス通り(右)の二叉路現状。右は、1938年(昭和13)の目白通り拡幅工事で現在地へ移された、宝永7年(1710)の彫刻がある二又子育地蔵尊。
◆写真下:左は、葛ヶ谷(西落合)も近い長崎の西にあった野球場「海上グラウンド」で、近所の画家たちが集まって野球大会Click!を開いたかもしれない。右は、下落合の西端「渋澤農園分譲地」。