1932年(昭和7)3月4日の午後9時10分ごろ、赤羽方面から東京市街へと向かう、「団体旅客」列車を見送る群衆へ、品川方面から走ってきた山手貨物線の蒸気機関車が突っこんで多数の死傷者を出した事故の様子は、以前にもこのサイトで簡単な記事Click!にしている。今回は、事故の経過をより突っこんで詳細にご紹介したい。
 まず、赤羽方面から品川方面へと向かっていた専用列車が、いったいどこの団体がチャーターした車両だったのかが、新聞ではいっさい触れられていない。1932年(昭和7)3月5日の東京朝日新聞には、「団体旅行者」たちの乗った列車としか記述されておらず、また同日の読売新聞には「〇〇列車」とすべてが伏字表現になっている。この時代の表現で、検閲による発禁を怖れ伏字にして紙面へ掲載しない言葉としては、左翼あるいは労働運動にかかわる争議Click!関連のワード、あるいは軍部の動向や部隊の移動に関する軍事情報などのニュース以外には、ちょっと考えられない。すなわち、「〇〇列車」はマスコミが公然と書いてはまずい、なんらかの団体が赤羽方面から東京市街地へ向けてやってきた・・・という状況だろう。
 東京朝日新聞と読売新聞の記事を比べると、朝日の記事には伏字がなく一貫して「団体旅行」と表現されているので、ちょっと読んだだけではなにやら慰安旅行のチャーター列車のようにも思えてしまうのだが、読売のほうは紙面のあちこちが伏字だらけなので、すぐに当局にとっては知られてはまずい団体、つまり左翼がらみか軍事がらみ記事であり、記事表現を自主規制せざるをえないテーマを内包した事故だ・・・と、言わずもがなで認識できる表現になっている。そういう意味では、報道規制がしかれ言論の自由が奪われていたこの時代としては、読売のほうが「隠匿」をあからさまにしているぶん、より「直接的」に報道しているといえるだろうか。
 わたしは当初、記事には伏字が多く列車を見送るのに多くの旗が振られていることから、労働運動がらみの「争議団」列車、あるいは地方の工場から本社のある東京へとやってきた「団交」列車のように考えていた。死傷した被害者のほとんどが、10代から20代の若い男女工員だったことも、その心象を強くしていた。しかし、記事を注意深く読み進めていくと、どうもそうではないことに気づく。1932年(昭和7)3月5日に発行された、東京朝日新聞の三面記事から引用してみよう。
 
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 見送りの大群衆へ貨物列車突入す
 轢死六名、重軽傷多数/昨夜目白駅付近の大惨事
 四日午後九時過ぎ赤羽経由、団体旅行者を満載した列車が省線高田馬場、目白間を通過するので、これを見送るべく、沿道は早くから多数の群衆で埋まつて、両駅間の土手に待ち受けてゐたが群衆は刻々に増加し果ては土手を上つて貨物列車の線路上にまで溢れてゐた、午後九時十二分右乗客列車が通過する際、反対側から品川発田端行貨物列車七八三号(略)が直進し来り群衆の中へ突入し、瞬く間に多数は列車の下敷きとなり遂に下落合町(ママ)三五指田製綿工場主三男指田潤三外五名の轢死者並に十数名の重軽傷者をだし微傷者はその場から帰宅した(。) 右の貨物列車はこの珍事のため同所に一時停車したが、列車の下敷となつてゐる事とて死体を引きずりだす事も出来ず、遂に三十八分余の停車を余儀なくした(ママ)、珍事出来と共に直に戸塚署、警視庁並に判検事が現場に急行し、青年団、在郷軍人団等の応援の下に死体は指田製綿工場に、負傷者は付近の高橋病院や帝大分院、下戸塚の真下医院等に収容した(。)
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 朝日新聞には、見出しに「目白駅附近」と書かれているが、正確には高田馬場駅のほうがやや近い。高田馬場駅のホームから、目白駅方面へ90~100mほど北上したあたり、ちょうど神田川鉄橋Click!をわたり終えた地点が、この大惨事の事故現場だ。線路西側の土手下(下落合35番地)には、この列車事故で多くの死傷者を出した指田製綿工場が操業していた。
 「団体」列車が通過したのは、当時、この区間にあった上下4本の線路のうち、いちばん内回り(東寄り)の線路、つまり通常は山手貨物線として利用されている線路で、現在の埼京線の上り線路ということになるこの線路上を、「団体」列車は品川方面へ向けて走り抜けた。行き先は、報道されていないので不明だ。ちなみに以前の記事で、わたしは高田馬場駅-目白駅間の線路の本数をいまだ3本のままと想定して、「団体」列車は山手線の内回りをやってきたと予想していたのだが、1932年(昭和7)にはこの区間の山手貨物線は単線ではなく、すでに複線化工事がなされており、東端の貨物線が臨時列車用に使用されていたようだ。


 山手線の土手上には、近くに住む若者や工場へつとめる若い男女の労働者たちが、手に手に旗を持って見送ろうとしていた。戸塚町(早稲田側)から土手に上がった人々は、すぐ目の前を「団体」列車が通過するので、線路内へ入る必要がなく危険は少なかったが、下落合側の人々は山手線の外回りと内回り2本の線路をはさみ、山手貨物線の外回り線路のさらに向こう側を「団体」列車が通過するので、打ち振る旗などが暗くて車窓からはよく見えないと考えたのだろう。そこで、つい誰かれとなく山手線の線路内へと立ち入ってしまったのだ。
 線路上へ入りこんだ若者たちは熱狂し、「団体」列車の見送りに気をとられすぎて、品川方面から急接近してくる貨物列車に気づかなかった。「団体」列車の騒音で、貨物列車の近づく音がかき消されて聞こえなかったのかもしれない。貨物を牽引していた蒸気機関車が、下落合側の線路上にいた大群衆に突っこんでしまったのだ。つづいて、同日の東京朝日新聞から引用してみよう。
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 親兄弟を呼び大混乱 現場は高田(ママ)と目白駅の丁度中間に当つてゐるところ、惨禍に遭うたのは落合町寄りに集まつてゐた人々で、早稲田寄りの側にゐた人達は自分達のゐる側の方を列車が通過するので土手の上に整列してゐたため危難は免れたのであるが落合町側の人達は列車に近づくには中央の線路上まで出なくてはならなかつたため制止もきかず線路上に立つてゐたのでこの惨事に遭遇したものである、惨事突発直後の現場は狂気の如くなつて泣き叫ぶ人々、憐れ車輪に触れて瀕死の重傷を負うて悲鳴をあぐるもの等昂奮と悲歎の極致に達し、せい惨な状景を呈した、そこに群がつてゐた人達は高田、戸塚、落合等近所の人達が家族出そろつて来てゐたために遭難者の氏名が明かになるまでは大変な群衆だつたので互に親兄弟の名を呼び合ひつゝ貨車の周囲を駆け回りその哀愁と混乱の様は言語に絶しそれを警官や青年団員が必死となつて制止し慰めるといふ有様であつた(。)
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 事故に遭った人たちのほとんどが、山手線沿いに住む近所の人々だったため、事故の情報が周辺へ伝わるとともに、家族や知り合いたちがいっせいに現場へと駈けつけ、付近が大混乱となった様子が伝えられている。「団体」列車を見送ろうとしていた落合町側の人たちは、東京朝日新聞によれば鉄道関係者(保線区の職員など)に制止されたかのように書かれており、土手上にいた見送りの人数があまりにも多く、また興奮していたために(鉄道関係者の)注意や制止を振り切り、次々と線路内へと侵入していったような記事内容になっている。
 だが、読売新聞の報道だと、朝日の報道に比べややニュアンスが異なってくる。特に、線路土手へと上り、線路への侵入を制止しようとしていたのは新宿保線区の鉄道員ではなかった。当日、現場には鉄道関係者はひとりもいなかった。「団体」列車の見送りのために、危険な線路内へ立ち入るのを制止していたのは、新宿保線区から依頼された地元の在郷軍人会(団)だったのだ。
                                                 <つづく>

◆写真上:1932年(昭和7)3月5日発行の、東京朝日新聞に掲載された事故現場の写真。
◆写真中上:目白駅側に残る線路土手の上から、山手線の事故現場方向を見た様子。
◆写真中下:上は、1932年(昭和7)3月4日午後9時すぎに起きた惨事を伝える東京朝日新聞。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる事故現場あたりの様子。
◆写真下:左は、高田馬場駅のホーム北端から見た事故現場方向。右は、神田川の鉄橋手前からとらえた線路で、1932年(昭和7)の大惨事は4本見えている線路の右から2本目で起きた。