では、この事故Click!を読売新聞はどのように報道したのだろうか? 東京朝日新聞に比べ、少なくともチャーターされた専用列車に「団体旅行者」が乗っていたというような、抽象的でボカした表現はあえてとっていない。おそらく、当初はそのまま直接的な原稿を書き、当局に検閲を受けそうな箇所は、入稿の際にあらかじめ「〇〇列車」というように、文字を伏字で抜いて掲載している。1932年(昭和7)3月5日に発行された、同紙の記事から引用してみよう。
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 線路上の群集に列車突入/即死六名十余名重軽傷す
 遭難者は殆んど若い職工の男女/昨夜高田馬場駅近くの惨事
 四日午後九時十分ごろ市外高田町八一四、一〇一九両番地先山の手線の高田馬場駅から約五十間ほど目白駅に寄つた線路上で同地付近の男女五六十名が立ち並んで品川駅行き上り〇〇列車一,〇〇七号を見送りつゝ夢中で万歳を歓呼してゐる際、反対の方向から〇〇列車と摺れ違ひに品川発田端行七八三号下り貨物列車(略)が驀進し来つてアハヤといふ間もなく線路上に逃げ迷ふ男女を無残にも或ひは轢断或ひは刎ね飛ばして下落合指田製綿工場男女工等即死者六名、重軽傷者十余名を出した、急報により所轄戸塚署から津崎署長以下警官四十名、東京地方裁判所から市原検事、警視庁から鑑識課員等現場に急行、付近の在郷軍人、青年団、消防組等の応援を得て重軽傷者を最寄りの伊藤病院、真下医院、楽山堂分院及び帝大病院分院に収容して応急手当を加へた、椿事を起した現場はふだん通行を厳禁してある約十米もある高い土手上の線路で真ツ暗闇の中に気味悪く光る線路の付近一面に頭、胴体、四肢等が飛散して名状し難い凄惨な光景を呈し、足場が悪いため負傷者の収容、死体の取り片づけに大混乱を現出した、
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 もっとも犠牲者を多く出したのは、山手線西側の土手下(下落合35番地)で操業していた指田製綿工場だった。この事故により、経営者の三男である中学生の指田潤三(17歳)をはじめ、同工場につとめていた田中兼吉(22歳)、海老澤新一(19歳)、関文一(17歳)、藤岡照道(18歳/のち病院で死去)の5名が犠牲になっている。また、重傷者の中にも同工場の工員が多く含まれており、特に10代後半の少女たちが目立つ。重傷者の8名を合わせ、指田製綿工場だけで計13名の死傷者を出しているのだ。同社では操業をつづけられないほどの、壊滅的な被害だったろう。

 指田家の三男である独協中学3年の潤三は、長男と次男を相次いで亡くしていた同家にとっては、最後に残った跡取り息子だった。読売新聞は事故直後、母親へインタビューしている。(ちなみに東京朝日新聞は父親へのインタビューを掲載) 読売新聞の記事から引用してみよう。
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 「何んてことになつたんでせう、夜だから二階のバルコニーから送れといつたのに皆んなで出かけてこの災難です、まだ病院から死体もとゞかないのですが潤三は私たちにとつてはかけがへのない一人息子で親の欲目でいふのではありませんが学校の成績もよく親孝行の息子でした、独逸協会の三年生で大の軍人ずきであの爆弾三勇士の話には非常に感激してゐましたがとんだところで死んでくれました」
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 親として哀切きわまりない声なのだが、ここで注目すべき「爆弾三勇士」という言葉が出てきている。また、息子は「軍人ずき」だったとも話している。ここにきて、どうやら指田家の子息をはじめ、見送りに線路土手に集まって熱狂していた工員の少年少女たちは、決して「争議団」Click!などを見送るために集合していたのではないことが見えてくる。当夜、山手線を警備していたのは保線区要員ではなく在郷軍人会だったことも考え併せると、記事の文面を伏字にしなければならないもうひとつの要因、すなわち列車が「軍用」だった可能性が浮かび上がってくるのだ。
 「爆弾三勇士」(読売・東京日日両新聞)あるいは「肉弾三勇士」(東京朝日新聞)とは、この列車事故が発生するわずか1ヶ月前の1932年(昭和7)2月に、上海事変で起きた戦場での出来事をベースにし、軍とマスコミが一体となって「軍神」を作り上げていった、つとに有名なエピソードだ。戦前に小学校へ通われた方なら、おそらく知らない人はひとりもいないだろう。前線の現場にいた兵士たちの証言さえ無視され、いかに虚偽の「軍国美談」が捏造され、ありもしないことがデッチ上げられていったかの詳細はWikipediaやそのリンク先を参照いただくことにして、列車事故が起きた3月には早くも「爆弾三勇士」の芝居や映画がかかるほど、日本じゅうがなにかに憑かれたような熱狂ぶりだった。そのような状況の中で、この「〇〇列車」の見送り事故が起きたことになる。
 
 「〇〇列車」の伏字には、はたして上海事変の戦場へと向かう「軍用」か「出征」、「師団」、「部隊」などの軍事ワードが入るのではないか。その想定は、当時の床次鉄道相へのインタビューでよりいっそう鮮明になってくる。まず、東京朝日新聞が取材した同鉄道相の談話から引用してみよう。
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 「真に気の毒な事をした、大臣として此現場に来たのは初めてらしいが特別の事故なので遭難者御見舞ひの意味でやつて来た、平常ならこんな珍事も起さないんだらうが今は何しろ日支事変で人々が興奮してゐるから線路を横切るやうな冒険もやつたのだらう、それに現場はレールが直線なので速力も出てゐるし急には止められなかつたのだ、鉄道省としては慰しや方法が規定されてゐるから今特別に考慮はしてゐない」
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 これに対し、読売新聞の同鉄道相の談話は伏字だらけで、なにを言っているのかさえ不明だ。
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 「〇〇の〇〇を送つての奇禍でほんとに気の毒なことでした、文字通りに血をもつて送つたわけで〇〇〇に殉じたともいへる、鉄道としてどうするかは何んともいへぬが自分は過失がどちらにあつたにせよ〇〇を送つての災難だけに特に同情してゐる」
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 夜間の山手線に、出征する部隊を満載した列車が走っているのを秘匿しなければならなかった理由は、日中戦争が勃発していたため間諜による「通敵」、あるいは部隊移動に対する妨害工作を懸念しての措置だったのだろう。専用列車が走る山手線の沿線を、在郷軍人会(団)のメンバーが警備していたことも考慮すれば、「〇〇列車」はまちがいなく軍が仕立てた特別列車である公算がきわめて高いことになる。上掲の談話に入る文字を想像すると、「出征の部隊を送つて」、「三勇士に殉じたともいへる」、「出征を送つての災難」とでも入るのだろうか? 同じ下落合の町内で、争議団を結成して目白通りをデモ行進し、逮捕されていたバスガールの少女たちClick!もいれば、「爆弾三勇士」に熱狂して興奮し、山手線の線路土手を上って事故に遭った少年少女たちもいた。
   
 山手線の線路土手の上で、10代の「軍国」少年少女たちが竹ざおの先に結んでふっていたのは、赤旗ならぬ日の丸だったのだろう。日中戦争から太平洋戦争へと突入していく、まるで熱に浮かされたような国民の姿が、すでにこの少年少女たちの事故に垣間見えている。彼らは熱狂し状況を冷静に判断する目も耳もふさがれて、目前に迫る壊滅的な危機に、誰も気づかなかったのだ。

◆写真上:指田製綿工場の少年少女たちが上ったと思われる、ちょうど事故現場下にあたる下落合側の線路土手の斜面で、正面奧に見えているガードは山手線の神田川鉄橋。
◆写真中上:1932年(昭和7)3月5日に発行された、読売新聞の事故記事。
◆写真中下:左は、事故現場の真下にあたる線路土手。右は、事故現場の北側につづく線路土手だが、斜面の下段がコンクリートで鋭角に固められたのは事故のあとかもしれない。
◆写真下:指田製綿工場から列車を見送りに出た人々で、事故に巻きこまれた少年少女たち。左から右へ、死亡した同工場の独協中学3年・指田潤三(17歳)、同工場の工員・関文一(17歳)、同・海老澤新一(16歳)、重傷を負った同工場の工員・田中とよ(15歳)。