下町の記事を、3本つづけてアップする予定だったのだが、この夏、旧・下落合の目白文化村でロケが行なわれた映画『スープ・オペラ』が上映中なので、そちらの記事を優先させていただきたい。
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 第二文化村Click!から南へ下る坂道(この坂道は、最近名前が付いたのを刑部昭一様Click!からご教示いただいたのだが、失念してしまった)の途中に、昔から面白い標識がある。ちょうど、以前にご紹介した宮下琢郎Click!が『落合風景』(1930年)を描いたあたりで、武者小路実篤Click!が住んでいた下落合1731番地界隈だ。第二文化村の尾根上から下ってきた道が、一度凹地状にへこみ、再び下って中ノ道(下の道)Click!へと通じている。もっとも、戦前から改正道路(山手通り)の工事で坂道は分断され、ちょうど真ん中の部分が途切れているのだが・・・。
 少し前まで、その標識には「この先水溜りがある場合/通行不可」と書かれていたのだが、最近は「通行注意」に変わった。わたしとしては、水たまりができると「通行不可」のほうが謎めいていて好きだったのだけれど、それじゃあんまりじゃんか・・・というご意見がどこからか出たのだろう、「注意」の表記になった。事実、大雨が降って坂道の凹地に「水溜り」(というか池だ)ができると、標識のイラストのように車が水没してしまう。つまり、水陸両用車でもない限り、大きな「水溜り」がができるとクルマでは危なくて通行できなかった地点なのだ。わたしは、実際に水没自動車の現場を見ていないが、過去にそのような事件が発生したのだろう。「文化村自動車水没事件」の記録がどこかで見つかったら、ぜひ“落合の事件簿”に追加したい。
 さて、きょうは道路標識の話ではなかった。第二文化村の安東邸が、映画『スープ・オペラ』(瀧本智行監督)の舞台となり、丸ごとロケ現場として使われた。少し前に、Y&Eさんからコメントをいただいたので、さっそく上映中の『スープ・オペラ』を観にいった。原作は阿川佐和子なのだが、ほのぼの系ドラマでちょいと退屈するかな?・・・と思ったら、坂井真紀の演技がとてもよく、けっこう2時間たっぷり楽しめた。映評は負け犬さんClick!が書いてくださると嬉しいのだが、最近はお忙しいのかなかなか原稿をいただけない。もっとも、彼女の感覚からするとピンとこない映画かもしれないのだが。(爆!)
 目白文化村の邸を丸ごと使って映画のロケが行なわれたのは、戦前に夏川静枝Click!が主演してロケーションが行なわれたとみられる、第一文化村の中村邸Click!以来ではないだろうか? この作品は、いまだフィルムセンターなどでも探し当てられていないのだけれど、戦災でフィルムが焼失してしまい1本も残っていない可能性が高いようにも思える。
 
 こちらでも何度かご紹介しているけれど、安東邸のおばあちゃんは日本橋人形町のご出身で、わたしも何度か取材でお訪ねし、下落合ばかりでなく戦前の日本橋界隈のお話もうかがっている。クルマ水没標識のあるずっと坂下に、李香蘭Click!が住んでいたのをご教示いただいたのも、安東おばあちゃんからだ。わたしの親父は李香蘭が好きだったので、有楽町の日劇を三重に取り巻いた行列に並んでいたらしいという話をすると、「すごい人気だったのよ!」と坂下の右手を指しながら話された。大正期にみられる和洋折衷住宅の代表的な意匠をしている安東邸は、第二文化村が1923年(大正12)に販売された翌年、ほとんど最初期に建設されている。
 映画の中に登場するのは、邸の1階と2階のほぼ全体なのだが、部分的にスタジオ撮りが混じっているのかもしれない。また、庭先でのロケが頻繁に行なわれたらしく、飼いネコの“リアン”がいろいろと演技をするシーンには、普段いうことをきかないネコに手を焼いているわたしとしては感心してしまった。大正期に応接間として設計され、戦後はお嬢様のピアノ室として使われていた洋間の部分が、映画に登場した部屋のどれに当たるのかはわからなかった。
 
 
 各部屋とも非常にしったりした造りをしていて、ドアや窓、天井などの何気ないデザインにも凝った工夫が施されている。黒光りした柱や廊下、縁側、ドアなどが撮影ライトを浴びてしっとりと美しく、和室はあまりロケに使用されずに、洋間中心で撮影が進められたようだ。いかにも、大正期のモダンな和洋折衷住宅で、建設時期が第二文化村の販売時期に近いところをみると、建築を請け負ったのは箱根土地Click!の建築部Click!なのだろうか。1945年(昭和20)4月13日の文化村空襲Click!では、尾根上に近い2棟先まで延焼しているが、当時は淀橋区長が住んでいた北隣りの邸と安東邸は、かろうじて延焼からまぬがれている。
 あまり映画について書くと、ネタバレになってしまうのでマズイのだが、原作者か監督のどちらかが下落合の地域性を知ってか知らずか、居候としてやってくるのがフランスへの遊学経験もある洋画家なのには、思わず笑ってしまった。藤竜也は、あまり画家ってタイプじゃないと思うのだが、わたしが好きな加賀まりこが同時に出ていたので、画面がときどき引きしまってそれほど不自然さは気にならなかった。感心したのは、映画の小道具として集められた家具調度類だ。特にダイニングに置かれたイスやテーブルは、ほんとうに大正期に製作されたものではないだろうか? 独特な“ねじり”のデザインが施されたイスは、中村彝Click!のアトリエに置かれていたイスClick!に意匠がよく似ており、コーディネーターが苦労して当時の家具をどこからか探してきたのではないだろうか。
 
 
 目白文化村がお気に入りの方、近代建築に興味がおありの方、またネコやシャンソンがお好きな方にはお奨めの『スープ・オペラ』なのだが、上映館が少なめで地味な作品なのがちょっと残念だ。新宿ピカデリーは昨日で終了のはずだったのだが、きょうから上映延長が決まったようなので好評なのだろう。そのうちDVD化され、自宅で目白文化村に建てられた和洋折衷の大正建築を、じっくりと観賞することができるのだろうが、映画はやっぱり映画館で観ないと面白くない。

『スープ・オペラ』公式サイトClick!
シネスイッチ銀座Click! 品川プリンスシネマClick!~10月29日 新宿ピカデリーClick!~11月4日
◆写真上:第二文化村の販売直後、1924年(大正13)に建築された安東邸。
◆写真中上:第二文化村から山手通りへと抜ける坂にある標識で、3年前(左)と現在(右)。
◆写真中下/下:『スープ・オペラ』のワンシーンと、猛暑の中でロケーションが行なわれた安東邸。