第1次世界大戦が終わりヴェルサイユ条約が批准されたあと、1922年(大正11)3月10日から7月20まで東京府主催の「平和記念東京博覧会」が、上野公園を中心に開催された。この平和博に、各住宅メーカーは注目すべきモデルハウスを14棟出品している。その中で、日本セメント工業(株)が出品した鉄筋コンクリートブロック仕様のモデルハウスは、同社の技師長をつとめていた中村鎮Click!とともにすでにご紹介している。今回は、残り13棟について触れてみたい。
 出展されたモデルハウスが重要なのは、平和博が開かれたこの年、日本で初めての「田園都市」あるいは「文化村」Click!と呼ばれ、既存の宅地開発とはコンセプトが大きく異なる本格的な郊外の洋風住宅街が、山手線・目白駅近くの下落合と目黒駅近くの洗足Click!に誕生しているからだ。そして、展示されたモデルハウスはそれら新興住宅街に建てられるべき、日本人の新しい生活様式を踏まえた住宅群の雛形、あるいはミニチュアモデルともいうべき役割りを果たした。
 平和博のモデルハウスを紹介する図録として、同年5月には『文化村住宅設計図説』(鈴木書店)も出版されている。当図録を執筆しているのは、のちに吉武東里Click!とともに国会議事堂を建てることになる工学博士の大熊喜邦Click!だ。大熊は、同書に「文化村の生立」というタイトルで展示会の開催意味と、各モデルハウスの詳細を紹介しているが、同時に住宅展示場の企画者として平和博文化村の「村長」に就任している。アビラ村(芸術村)Click!の「村長」へ、東京土地住宅(株)の企画に共鳴した満谷国四郎Click!が就いたように、当時は新しい住宅街のコンセプトを推進する象徴的な人物を、「村長」にすえるのが流行っていたものだろうか。
 
 
 
 平和博の文化村展示場へ出品するモデルハウスには、いくつかの条件や制約がつけられていた。それは、おカネ持ちだけでなく、一般の勤め人(サラリーマン)でも家を建てられるよう、コンパクトで経済的かつ「文化的」な生活を送れるような作品であること・・・という目標があったからだ。その条件や制約のいくつかを挙げると、以下のような出品規約が設けられていた。
 ●モデルハウスを建設する敷地の、樹木を伐採しない。
 ●建坪は20坪以下とし、1坪あたりの単価は200円以下とする。
 ●外観は和洋を問わないが、従来の雨戸や障子は廃した工法とする。(実質洋風)
 ●門や塀で家を囲まず、居間・客間・食堂は必ず洋間にすること。
 ●台所には実用的な洗い場・棚・炊事器を配し、洗面所と浴室は新しいアイデアを盛りこむ。
 ●家の仕様に見合うインテリアを整え、便所には実用的な便器と汚物処理装置を備える。
 ●屋外には、実用的な庭園を設けること。
 ●設備の費用は、建築費の3割を超えないこと。
 このような条件や制約のもとに、平和博文化村のモデルハウス14棟はできあがった。
 平和博そのものも大きな評判を呼んだが、文化村に展示されたモデルハウスもかなりの反響があり、「村長」の大熊喜邦のもとへは全国から図面や写真、説明書を求める手紙が寄せられたようだ。都市部ばかりでなく、中には地方の「辺鄙な場所」の住民から問い合わせがきたと、大熊自身が驚いている。彼は同図録の中で、展覧会の主旨を次のように書いている。
 
 
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 一たいこれ迄は世間の人が住宅に対して余りに無関心であつたが都市に於て普遍的に住宅の払底を来してから所謂住宅問題が喚び起されたので、これはわが文化史上には未だ会て有らざる現象であつた。然し住宅に関する議論は各自の生活方法の相違や趣味主張の異る為めに、やゝもすれば抽象的になつて其の主旨を徹底さすことが頗るむづかしい。図面を以てしても猶ほ表し得ない。それには実物を造つて比較研究するに優ることはないのである。而してかくすることによつて、未だ理解の徹底しなかつた事項も直ちに一目瞭然として快明するに至るのであると思ふ。
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 面白いのは、14棟の出品作品のうち13棟が、おそらく出展の諸条件や制約を遵守した西洋館ないしは洋風建築なのに対し、たった1棟だけ純和風住宅が存在している。上掲の“お約束”をあらかた破り、全室が畳部屋で障子や雨戸つきの日本家屋「メートル法による木造建築の標本」がそれだ。出品したのは、日本材木問屋同業組合だった。「じゃあだんじゃねえや、家がセメントやモルタルのあっちもんばかりになっちまったら、こちとら遠からず注文が減ってよ、おまんまの食い上げてえもんだぜ、なぁ!」・・・とばかり、和風庭園つきで思いっきり従来どおりの日本住宅を展示している。いままでと異なるのは、尺貫法ではなくメートル法を使って家を建てました・・・という、ただそれだけの違いだ。確かに、当時の大工はメートル法が理解できず、新世代の設計者との間で少なからず軋轢Click!を生じていた。だから、メートル法で建設した日本家屋というのは、現在から想像するよりも建築業界においては“革命的”なことだったのかもしれない。
 
 
 「文化村」のコンセプトに共鳴し、これから東京郊外の田園地帯へ家を建てようとしていた人々は、ごぞって上野の平和博文化村へ出かけたにちがいない。彼らは別に資産家ではなく、一般の会社づとめの人たち、当時の流行り言葉でいえば「中流」と呼ばれた人々だった。上野の桜林に建てられた多くのモデルハウスは、今日の眼から見てもシャレていて時代遅れをあまり感じない。

◆写真上:明治末に建てられた日比谷公園の管理棟で、まるで大正期の文化住宅のようだ。
◆写真中上:平和記念東京博覧会に出品されたモデルハウスで、左上から右下へ生々園、あめりか屋、吉永京蔵、小澤慎太郎、建築興業(株)、島だ藤吉の各出品作。
◆写真中下:左上から右下へ飯田徳三郎、銭高作太郎、上遠喜三郎、前田錦蔵の各出品作。
◆写真下:上左は樋口久五郎、上右は生活改善同盟会の出品作。下左は、ただひとつ純和風な「メートル法による木造建築の標本」を出した東京材木問屋同業組合の作品と平面図。下右は、1922年(大正11)に鈴木書店から出版された『文化村住宅設計図説』。