以前、中村彝Click!が下落合から平磯海岸へ転地療養に出かけた1919年(大正8)の夏、アトリエClick!の留守番をしていた福田久道Click!について書いた。ロシア語が堪能で、中原悌二郎Click!や妻の中原信とも親しく、ロシアからやってきたニンツァーの相手をしたのも福田だった。中原悌二郎は、『福田久道氏の首』という作品を残している。福田はのち、昭和初期にはマルクス主義に共鳴して唯物論研究会の機関誌『唯物論研究』(1932年)、あるいは季刊誌『教育評論』(1933年)といった雑誌を創刊し、ドストエフスキー作品の翻訳家としての顔も見せている。
 ところが、わたしはとんだ見落としをしていて、中村彝の親しい友人のひとりだった福田が下落合に住んでおり、しかも出版社・木星社(のち昭和期になると木星社書院)の代表であることを、うっかり気づかずにいた。すなわち、大正期を代表する美術雑誌のひとつ、『木星』の代表編集者&発行者こそが福田だったのだ。どうりで、1924年(大正13)10月の『木星』創刊号より、中村彝の名前が頻繁に登場するわけだ。福田は、しょっちゅう彝アトリエへ遊びに来ていて、中村彝から見れば転地療養中に留守番を頼めるほどの親しい間柄だったのだ。
 それに改めて気づいたのは、『木星』を図書館で閲覧したり、コピーいただいた資料を見るのではなく、彝に関連する号を実際に手に入れ、編集後記や奥付までじっくり読むようになってからだった。ちなみに、1924年(大正13)の『木星』11月号には、中村彝より「芸術の無限感」Click!と題する文章が寄稿されている。のちに、彝の親しい仲間が集まって遺稿集を編集し、岩波書店から出版された『芸術の無限感』(1926年)は、『木星』掲載のタイトルから採用されているのがわかる。
  
 木星社および福田久道の自宅は、佐伯祐三Click!のアトリエにもほど近い、のちに吉田博アトリエClick!となる第三文化村Click!の角地の斜向かい、「八島さんの前通り」Click!からほんの少し西へと入りこんだところ、路地に面した下落合1443番地に建っていた。1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には、社名あるいは住民名が採取されていないけれど、前年の「出前地図」(「下落合及長崎一部案内」の中央版Click!)には、「木星社」の社屋をハッキリ確認することができる。同図が作成された1925年(大正14)当時は、箱根土地Click!による第三文化村の販売が行なわれたばかりであり、いまだあちこちに造成された赤土がむき出しの敷地や草原が残っていただろう。そのような情景の中に、福田の社屋兼自宅はポツンと建っていたと思われる。
 彝アトリエや、曾宮一念アトリエClick!のすぐ近くに住みながら、1924年(大正13)の12月24日、福田は午前中の彝の死をもっとも遅くに知ったうちのひとりだった。福田はこの日、『木星』次号の製版打ち合わせや印刷の手配などで東京じゅうを駆けまわっており、彝死去の知らせがとどいている義兄の家へ立ち寄ったのは、もうすっかり日が暮れた夜8時になってからだった。1925年(大正14)発行の『木星』1月号(中村彝追悼号)へ執筆した、福田久道の「彜兄!」から少し長いが引用してみよう。ちなみに、福田は同追悼文のタイトルに「彝」(糸)ではなく、 「彜」(分)の字Click!を用いている。
 
  ▼
 旧臘師走二十四日、それは私にとつて何んといふ日だつたう(ママ)。何年越、怖れに怖れてゐたその日が遂に来たのだ。その日、午後六時半には、私は田中製版所で、一月号の口絵「若きセザンヌの自画像」の製版の一日遅れた侘びと、その理由とを石橋君やその他の人々から聞いて、困つたことになつたと、その後の手筈の事を相談してゐたのだ。それからその由を牛込の印刷者織田君の所へ伝へに行き、やつと義兄の家に着いたのは八時頃だつた。ちよいちよい用事も出来るのだが、それを兼ねて大抵は少くとも隔日位には立寄るのが例なのだ。寄つては、私の家が郊外の辺鄙な所なので、入浴に不便な為、湯に入れて貰つたり、食事をとらせて貰つたりするのが常だつたからなのだ。既に製版所へ行くまでに、その日でなくてはならなかつた大事な用件の為に、私は何個処を駈け廻つたか知れないのだ。だから私は裏木戸を入つた時、澄み切つた真冬の星だらけの天を見上げてホツト溜息を吐き、やれやれといふ気持になれたのだ。ところが其処には何んといふ運命が待つてゐたことだ。それとも知らず私は自由に腕を動かす事も出来ない程疲れ切つた重苦しい腰を、そつと障子をあけてどかりと上りガマチに下ろした。と、それを知つて奥から出て来た義姉は、あらつと言つた切り、突立つたまゝ私の顔を凝視した。それは一見して異常な出来事の起つた緊張した表情だつた。私はハツトした。
  ▲
 文中にもあるとおり、『木星』は単なるテキストの印刷だけでなく、巻頭には豪華なカラー口絵(グラビア)が毎号掲載されている。同号には、彝の生々しいデスマスクとともに、『大島風景』(1914年)や『雉子』(1919年)、そして『血を吐く男』(1919年ごろ)がグラビアで挿入されている。
 
 『木星』は、紙面全体を通じて広告掲載が少なく、日本橋・三越や美術用具の神田・文房堂、いくつかの出版社の案内などが見えるだけで、経営的にはずいぶん苦しかったのではないか。福田自身による“持ち出し”も多かったとみられ、木星社が木星社書院と社名を変えた昭和初期、次々と発行された雑誌は長くはつづかず、いずれもきわめて短命に終わっている。

◆写真上:木星社=福田久道の自宅があった、下落合1443番地の現状。
◆写真中上:左は、1925年(大正14)1月発行された『木星』(中村彝追悼号/第二巻第二号)の表紙。ビジュアルに採用されている中村彝『自画像』(1916年)は、1冊ずつの手貼りによる製本だ。中は、同号の奥付。右は、1924年(大正13)11月に発行された『木星』(第一巻第二号)のコンテンツで、彝が寄稿した「芸術の無限感」のタイトルが見えている。
◆写真中下:左は、1925年(大正14)の「出前地図」(下落合及長崎一部案内)中央版にみる下落合1443番地の木星社。右は、翌1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる同所。
◆写真下:1932年(昭和7)11月創刊の『唯物論研究』(左)と、1933年(昭和8)創刊の『教育評論』(右)で、ともに木星社書院の社名で発行されている。