これまで、さまざまな資料を参照しても、『下落合風景』シリーズClick!を制作している佐伯祐三Click!の目撃証言には、ほとんど出あえてこなかった。それは佐伯の死後、パリでの活躍シーンや目撃情報が中心に語られ、下落合での姿が語られる機会が少なかった、あるいは、下落合における佐伯の“暮らし”は日常なので、パリとは異なりそれほど周囲に対して「仕事」に関する強い印象を残してはおらず、生活上の面白いエピソードばかりが多く語られてきた・・・ということだろうか。非日常的な思い出は印象深く語られるけれど、日常的な様子は記憶されにくく、印象に残りにくいのは別に佐伯のケースに限ったことではない。
 『下落合風景』を制作する様子は、これまで笠原吉太郎Click!が描く『下落合風景を描く佐伯祐三』Click!をはじめ、曾宮一念Click!や佐伯米子Click!などのエッセイで断片的に垣間見えてはいたが、ハッキリとした佐伯の姿としてはあまり語られていないように思う。特に、アトリエから制作現場へと向かう姿や、現場で仕事をする様子などの証言には、ほとんどお目にかかれていない。ところが、藤川栄子Click!が『下落合風景』を制作している真っ最中の、佐伯の様子を証言していることがわかった。藤川栄子は、同時代の画家としてはめずらしく、『下落合風景』をパリ作品に比肩する仕事として評価している人物のひとりで、そもそもパリ作品と下落合作品とでは、制作コンセプトがまるで異なる仕事だ・・・と位置づけていたように思える。佐伯から聞かされていたかも知れない、そのコンセプトの違いについて、彼女は詳しく書き残していないのが残念だ。
 藤川栄子は、旧・神田上水(現・神田川)をはさんだ下落合の南側、上戸塚(現・高田馬場)にアトリエをかまえていたので、佐伯夫妻がパリから帰国した1926年(大正15)から翌年にかけて、ほぼ連日のように佐伯アトリエへ出かけていた。彼女なりに、パリ最新の絵画情報や表現動向を、佐伯夫妻から吸収しようとしていたのだろう。佐伯アトリエにイーゼルを持ちこんで、夫妻とともに制作することもまれではなかった。1969年(昭和44)1月発行の『繪』(No.59)に掲載された、藤川栄子のエッセイ「あの頃・一九三〇年代の交友」から引用してみよう。
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 佐伯さんの画室と私の家とは、至近距離にあったせいもあって歩いて行き交う仲であった。床にじかに紙を広げ、「なんていい音楽なんだろう」とくり返し、レコードをかけながらそのリズムを絵に表現しようと、紙の上にいくつもの鋭い直線をビシビシとひいていた姿が妙に頭に残っている。又近所の落合風景を描きあげたカンバスを置くと又新しいカンバスを持ってすぐ絵を描きに飛出していった、つかれたもののような彼の姿も。当時、落合、目白附近には多くの画家や文士が住んでいた。しかし私がしたしくゆききをしたのは主に佐伯祐三氏、前田寛治氏、里見勝蔵氏達であった。
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 近所に出て『下落合風景』の1作を仕上げると、一度アトリエへともどり、再びすぐに新しい自作キャンバスClick!を手にして、あたふたと出ていく佐伯の姿が活きいきととらえられている。佐伯アトリエへ入りびたっていた藤川栄子Click!ならではの目撃証言で、佐伯がパリでの仕事と同様、なにかに憑かれたような様子で『下落合風景』を大量制作していた様子がうかがえる。このとき、佐伯はアトリエに仕上げた作品を一度持ち帰っているので、かわりに号数の異なるキャンバスを持って出たのかもしれない。もし号数が同じキャンバスであれば、2枚を“表合わせ”に金具でとめて写生に出られるので、1枚を描き終わってもわざわざアトリエにもどる必要はないはずだ。もっとも、この日は3作目のキャンバスを取りにもどった可能性も否定できないのだが・・・。
 「制作メモ」Click!の短い期間に限定すれば、1日にキャンバスの号数を変えて2枚描いている日は、すなわち1作仕上げると一度アトリエへもどったと想定できる日は、1926年(大正15)の9月20日を皮切りに、9月22日、9月30日、10月21日の4日ある。また、「洗濯物のある風景」Click!に15号と20号の2種が存在し、「セメントの坪(ヘイ)」Click!には15号と40号の2枚が存在すると想定すれば、9月21日と10月23日も含まれることになり、都合6日ということになる。もっとも、藤川はアトリエへ「帰ったで!」ともどり、せわしなく「ほな、行てくるで!」と出入りしては、佐伯が『下落合風景』に熱中している季節を書き残してはいないので、ひょっとすると同年の冬か、あるいは翌年の春に目撃した、彼の憑かれたような姿なのかもしれないのだが・・・。
※「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!が描かれた可能性が高い。

 藤川栄子は、長谷川利行Click!などとともに1930年協会へ参加し、協会展では作品が入賞している。女性であるせいか、佐伯の男友だちの記憶や証言に比べ、性格の観察や“しぐさ”の記憶が繊細かつ詳細で貴重だ。彼女は、1930年協会ではめずらしく帝展画家で親しかった前田寛治Click!を例に出し、佐伯祐三とはまったく正反対の性格だったことを、文章の中で浮き彫りにしている。
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 前田さんは非常に頭のいい人でいつも頭の中が整理されていた。命まで絵だけにぶっつけた佐伯さんとは対照的なところがある。頭脳的、構成的、理性的といえるのであろう。彼は仲間の中で只一人の帝展出品者であったことも。展覧会に出品する絵はその期日より余程前までに出来上がっているといったように、すべてに計画性があった。日常生活にも秩序があり、早朝から制作を始めて、午後からは生徒を教えるとか用事を片付け、夜は遊びに出掛けても、あくる日の制作のために早めにきりあげて帰宅してしまうといったように合理的なところがあった。(中略) 前田さんはどんな大作をかいても絵具で手を汚すようなことはなかった。
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 藤川栄子の自宅では、ときどき1930年協会のメンバーClick!が集まってダンスパーティーが開かれた。そのとき、いかにも熱心に踊ったのが前田寛治や木下兄弟、小島善太郎Click!たちだった。佐伯祐三はまったく踊りには加わらず、いつも藤川家の大きなラッパのついた蓄音機の傍らに座り、曲が終わると次のレコードをかける音楽当番、つまり“人間ジュークボックス”をやっていたようだ。彼女の記録は、たいへん貴重な証言を残している可能性があるので、今後とも注目したい。

◆写真上:2006年7月に撮影した、風通しをする佐伯祐三アトリエ。
◆写真中上:同じく2006年7月撮影の、佐伯アトリエ南側(左)と北側の採光窓(右)。
◆写真中下:1928年(昭和3)に開かれた、1930年協会第3回展へ向けて作成された「出品規定」。
◆写真下:1930年協会第3回展図録で、表紙(左)と表4(右)。ウラ表紙には同協会の会員が毛筆で署名しており、左から右へ前田寛治、中野和高、野口彌太郎、小島善太郎。