下落合を走る西武電鉄(西武電車=現・西武新宿線)の、西武鉄道による路線計画(線路予測)図を年代順に見ていくと、そのクルクル変わる訂正申請の過程が、非常に興味深くて面白い。山手線乗り入れ駅を、1924年(大正13)4月12日の「敷設免許申請書」まで「目白停車場」としていたのに、半年ののち同年9月25日の「敷設免許申請書<訂正追申>」では、急に戸塚町の「高田ノ馬場駅」Click!へと申請のやり直しをしている。
 この間、確認できる申請書類に添付された当時の鉄道ルートの敷設計画図などには、現在とはまったく異なるルートで目白駅を起点(終点)とする線路敷設の「予測平面図」、同じくルートが異なる高田馬場駅を経由して早稲田が終点の図面、現状とほぼ同じルートで下落合氷川明神前の、なぜか下落合駅Click!が「終点」Click!の図面(!)、山手線をくぐらず高田馬場駅の西側へ乗り入れる図面(高田馬場仮駅Click!とはまったく別の図面)など、さまざまな平面図が残されている。
 このように、短期間でたびたびルートや乗り入れ駅が変更になり、鉄道省もそれに合わせて次々と変更申請を認可し、「免許」をスムーズに下ろしていったのは、当時の「都市道路計画」との密接な関連性も指摘できる。大規模な道路計画のルート、あるいは既存道路の「改修」による大型幹線道路化の計画が落ち着かないか未定のため、その変更や修正に合わせて鉄道ルートも再検討する必要に迫られた・・・という状況が透けて見えてくる。先の1924年(大正13)に出された2通の申請書(訂正追申)は、「放射道路二等大路第二類第二十三並ニ第二十五道路」の計画を前提とした鉄道ルートの敷設計画を西武鉄道が廃棄し、道路に沿って走る電車ルートを見直して、西武独自のルートを確保・敷設しようとする流れの中で提出されている。
 起点(終点)が目白駅ではなく高田馬場駅へと変更された、1924年(大正13)9月の「西武鉄道村山線延長敷設免許申請書<訂正追申>」に書かれた、「起点ノ訂正」理由を引用してみよう。

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 起点高田町目白駅トアルヲ戸塚町高田ノ馬場駅ニ変更セントスルハ、大正十二年四月十日付西鉄第二十四号ヲ以テ、新宿線新宿終点淀橋町角筈付近ヨリ大久保町ヲ経、戸塚町下戸塚ニ至ル都市計画事業中ノ道路改修計画書放射道路二等大路第二類第二十三並ニ第二十五道路上ト、及右第二十三第二十五道路境界点戸塚町小滝橋付近ヨリ分岐シ、野方町ヲ経井荻村地内ニ入リ村山線ニ接続スル専用道路上トニ、軌道ヲ敷設セントシ出願シタル当初ノ旨趣ニ還源シ、御省山手線トノ連絡ハ勿論市内交通機関トノ連絡ハ、目白駅ニ比シ高田ノ馬場駅ノ方便利ニシテ、且地形上工事施行ニ於テモ容易ナリト信ジラレ、加之他日或ハ市内ヘ乗入レ得ル可能性モアリト思料セラルゝニ拠ル。
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 この時点で、西武鉄道は高田馬場駅を起点(終点)と決定したものの、山手線の内側(東京市内)への乗り入れを、いまだあきらめていないことがわかる。また、各地の道路計画の進捗を意識しつつ、目白駅よりも高田馬場駅のほうが便利になると想定し、鉄道にとっては重要な起点(終点)となる山手線の駅をあえて変更している。この訂正申請には、当時の十三間通り(現・新目白通り)の計画も大きく作用していただろう。同道路計画は当初、山手線をくぐり抜けて早稲田・江戸川橋方面へと向かわず、氷川明神前の下落合駅建設予定地を経由し田島橋をわたって、現在の栄通りと同じルートを通り、高田馬場駅の北側で早稲田通りへと合流Click!することになっていた。


 すなわち、西武電鉄の開業直前、地元住民の方々にあちこちで目撃Click!されていた貨物列車が、下落合駅(初代の氷川明神前駅)で秩父方面から運ばれてきた大量のセメントClick!を下ろし、それを受け取っていたであろう陸軍が、強固なコンクリート橋梁化を大正末にいち早く完了していた田島橋Click!を経由して、トラックで戸山ヶ原Click!へと運びこんだと思われるルートと、先の十三間道路の初期計画とがほぼピタリと重なってくるのだ。いや、西武電鉄の終点を目白駅ではなく、戸山ヶ原にほど近い高田馬場駅へと変更した背景には、陸軍の強い意向が反映していたとさえ思えてくる。そう考えたほうが、むしろ自然のように感じるのだ。
 だからこそ、西武鉄道のたび重なる変更・訂正申請にもかかわらず、鉄道省は「文句」も言わず「イヤな顔」もせず、渋滞することなくスムーズに訂正「免許(認可)」を下ろしているのではないだろうか? 私営鉄道にとっては死活問題となりかねない起点(終点)駅の変更や、貨物列車による膨大なセメント輸送の便宜の見返りとして、陸軍は同鉄道の敷設工事に津田沼の鉄道第二連隊を、「演習」と称して全面的に投入(協力)しているのではないか?
 資料を当たれば当たるほど、西武電鉄の敷設には戸山ヶ原の膨大な陸軍施設、すなわち「軍都・新宿」Click!としてのもうひとつの顔が見え隠れしているように思えてくるのだが、おそらく西武鉄道の関連資料からは、もうこれ以上の詳細は見えてこないだろう。
 
 開業前の西武電鉄を、すでに貨物列車が往来していた・・・という地元の方々の目撃証言から、おもに西武鉄道関連の資料を中心に見てきたのだけれど、より深く突っこんだ事実を知るためには、鉄道関係ではなく陸軍関係の詳細な資料に当たってみる必要がありそうだ。特に、1927年(昭和2)ごろから戸山ヶ原で建設がスタートする、数多くの大規模なコンクリート施設の施工状況、資材の調達や運搬ルートなどの記録・資料がもし残っているとすれば、陸軍の手によって敷設された西武電鉄との関係が、より鮮明に浮かび上がるのではないかと想像している。

◆写真上:下落合15~16番地に建設されたと思われる、高田馬場仮駅跡の現状。仮駅を利用する乗降客は、神田川をわたって山手線・高田馬場駅へと抜ける連絡桟橋を利用していた。
※その後の取材で、高田馬場仮駅は山手線土手の東側にももうひとつ設置されていることが判明した。地元の住民は、「高田馬場駅の三段跳び」Click!として記憶している。
◆写真中上:大正初期に計画された、目白駅を起点(終点)とする西武電鉄の線路予測図。
◆写真中下:上は、1924年(大正13)9月以降に作成されたとみられる、高田馬場駅を起点(終点)とする西武電鉄の線路予測図。高田馬場を抜け、早稲田までの延長線までが描かれている。下は、同じころに作成された高田馬場駅を起点(終点)とする鉄道線路平面図。いずれも現在とは逆に山手線・高田馬場駅の西側へ乗り入れ、駅舎を建築する計画だったことがわかる。
◆写真下:左は、大正末とみられる線路予測平面図。今日の西武新宿線のルートと、ほぼ同じ位置に線路が描かれているが、なぜか下落合駅あたりが起点(終点)となっていて高田馬場駅は描かれていない。線路の敷設進捗を記載した図面の可能性もあり、下落合が起点(終点)だった初期の姿なのかもしれない。右は、1928年(昭和3)ごろに作成された「鉄道地図」の下落合駅。