東京西部の郊外Click!から静養もかね、藤沢・鵠沼に引っ越した岸田劉生Click!は1923年(大正12)9月1日、関東大震災Click!に遭遇している。関東大震災は、相模湾のプレートへもぐりこんでいるフィリピン海プレートの海溝部(相模湾トラフ)が震源のため、地震の予兆は東京地方よりも湘南海岸のほうが、より顕著に表れていたのではないかと考えた。鵠沼時代の劉生は、日記を毎日欠かさずつけていたので、その予兆を記録している可能性が高い。
 10万5千人の生命を奪う巨大地震の予兆は、どのようにして現象化していたのだろうか? 1923年(大正12)になって、さっそく劉生日記には地震の記録が登場する。1979年(昭和54)に出版された、『岸田劉生全集』第8巻-日記-(岩波書店)の1月14日(日)の記述から引用してみよう。
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 改造社の人とも約束ありやがてやって来て出版の事相談し、それから木村と銀座を歩く。信盛堂にてラクダの黒の襟巻をとる。一昨年の帝劇におき忘れた以来(ママ)わるいのをしてゐたのだがそれをふだんにおろして新調したわけ也。ふりかけ香水もとる。それから清辰へ行つたが番頭がゴーマンないやな奴で甚だ不快、何故こんな風にするのか一寸わからない。画をみたがいゝものなし、ひどい地震があつて一寸驚く。不快な気持にて清辰を出る。もうこの店へは来る必要なし。
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 この日、劉生は藤沢から東京へ出かけ木村荘八Click!とすごしているところを、かなり大きな地震にみまわれている。関東大震災Click!の、およそ8ヶ月前に記録された予兆のようだ。劉生の日記には、地震に関する記述が比較的多いが、「ひどい地震」と表現しているところをみると、危機感を抱くほどのよほど大きな揺れだったと思われる。
 1923年(大正12)という年は、例年になく気象も異常で、1月中旬に春のようなポカポカ陽気がつづいたかと思うと、4月の中旬には真冬に逆もどりして、アラレやヒョウが降るというような天候不順に悩まされている。4月13日(金)から冬のような寒さがつづいて、劉生のさかんに不安がっている様子が記録されているが、4月25日(水)にはついにこんな記述が登場する。
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 今日も雨、又少し寒し。この頃の気候はわるい。新聞に、人面の小牛(ママ)が生れて「今年は雨が多く天然痘がはやる」と予言して死んだとか出てゐたが嘘にちがひないとしても、一寸この頃の天候を気にするところから出た話だ。不作其他のいやな事のない事を祈つてゐる。
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 なんと「人面の小牛」、つまり不吉な「件(くだん)」が生まれて悪いことを予言して死んだという不気味な記事だ。この手の話は、「そういえば、あとから思い返すと・・・」という、なにかの事件が起きてしまってからの結果論的な「思い当たり」が多いのだけれど、劉生の日記はリアルタイム、つまり出来事と同時進行で書かれているため、さまざまな異常やおかしな現象は、あと追いの解釈や付会を差し挟むことなく、そのときに起きたままを記録している点に留意したい。

 
 
 つづいて、明らかに大震災の予兆と思われる現象は、劉生が鵠沼の自宅ですごしていた6月3日(日)に記録されている。このころから彼は、風邪をはじめ身体の不調を頻繁に訴えるようになる。
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 今朝方か又地震あり よく地震がある。無事を祈る。八時半おきる。昨日の花の図をハガキに模写、木村へ出すため也。少々凝つて、古くなつた絹のぼろぼろのところもうつす。
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 日記によれば、「よく地震がある」と書かれているので、おそらく初夏のころから弱い地震が連続して起きており、劉生がことさら地面の揺れに対して敏感になっている様子がうかがわれる。明けがた近くの地震が多かったものか、「又地震」とうんざりしたニュアンスで記述されており、同日の「毎日の寝不足」という記述は、あながち夜更かしだけのせいではないかもしれない。夜半あるいは未明の地震で、劉生は何度か眠りを妨げられていたのではないだろうか?
 さらに同じ6月、劉生は大地震の夢を旅行中にみている。同月、大阪に用事があって東海道線の特急寝台車で出かけているが、その車中で大地震の夢をみて目がさめている。この記憶は、同年6月の日記にはリアルタイムで書かれておらず、京都へ転居した2年後の1925年(大正14)4月8日(水)の日記に登場している。このとき、劉生は東京から京都へと帰る汽車の寝台で大地震の夢をみたのだが、そういえば2年前の震災直前にも見ている・・・と記憶が呼び覚まされたかっこうだ。
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 (大正十四年)4月8日(水) 曇
 汽車中にてめさめる。昨夜は汽車の中にしてはよくねた。暁方、又大地震の夢をみる。地しんの年六月大阪へ行つた時にも大しん(ママ)の夢をみた。汽車の寝台でねるとガタガタするので地しんの夢をみる。今度はへんに経験してゐるだけに実感的で恐ろしかつた。(後略)
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 劉生の地震夢はともかく、連続して起きていたと思われる小地震は、フィリピン海プレートの圧力に耐え切れなくなった相模湾側のプレートが、少しずつ反発をしはじめている現象と思われ、明らかに関東大震災へと直結する予兆だったと考えられる。1月に記録された「ひどい地震」も、おそらくその後につづく連続地震の端緒とでもいうべき現象のひとつだろう。
 このように、火山活動が活発化しているわけでもないのに「群発地震」のような弱震が頻繁に起きたとき、プレート性の巨大地震の兆候と位置づけられるのかもしれない。また、相模湾の湘南沿岸では、現在でも毎年少しずつつづいている海岸線の微小な連続沈下も、大地震が起きる前触れの現象として知られている。ただし、劉生が生きていた大正時代には、プレートテクトニクスのような考え方は一般化しておらず、海岸線の定期的で緻密な沈下測量など行われていなかった。
 頻繁に起きる小地震に不安をおぼえながら、劉生は東京から避暑がてら鎌倉や鵠沼へ遊びにくる、親しい画友や知人たちと楽しい夏をすごしたあと、9月1日(土)を迎えることになる。

 
 
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 九月一日(土) 雨後晴、
 今日といふ日は実に稀有の日である。恐らく安政以来の大地震とも云ふ可き大地震があつて、湘南、横浜東京を一もみにつぶしたのである。この日は、朝の中仕事にかゝらず、蓁と茶の間で花合せなどしてゐて余がまけて、少しかんしやくなどおこしてゐるところであつた。十二時少し前かと思ふ。ドドドンといふ下からつきあげる様な震動を感じたのでこれはいけないと立ちあがり、蓁もつゞいて立つて玄関から逃れやうとした時は大地がゆれて中々出られず蓁などは倒れてしまつた由、とも角外へ出るとつなみの不安で、松本さんの方へかけ出さうとすると照子が大地になげつけられ松の樹で眼をやられたとて蓁がかゝへて血が流れてゐる。あゝ何たる事かと胸もはりさける様である。家はもうその時はひどくかしいでしまつた。もう鵠沼にもゐられないと思つたがすぐ、これでは東京も駄目か、大へんな事になつてしまつたと思ふ。つなみの不安でとも角も海岸から遠い高いところへ逃れやうと傷ついた照子を蓁かゝへて麗子は小林がおぶつて一時購買屋のところで落ちついたが不安なので山へ逃れや(ママ)と行く。(後略)
 九月二日(日) 晴、
 暁方、螺子工場が焼ける。不安也。ぢき村の人たちによつて消されたが、ゆりかへし、つなみの不安去らず。小林横堀鵠沼へ行つてみて来る。小さい男の子のおぢいさんといふのが来て子供と会つた時は涙がこぼれた。母親や赤ん坊たち皆たすかつた由、本当によかつた。感謝したい気がした。五号の奥さんたちは鵠沼へ帰るとて去られた。昨日の時間に少し大きなゆりかへしあり 不安の中に過し、合掌し、神に祈る。(後略)
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 三浦半島から葉山、逗子、鎌倉、湘南海岸、真鶴、そして伊豆半島にかけては、本震Click!から最短でわずか5分後に、高さ10m前後と思われる大津波が沿岸一帯を襲った。劉生は、直感的に津波を予期し、近くの高台へ家族を連れてすぐに避難しているのは、おそらく江戸末期の1855年(安政2)に起きた安政大地震Click!の経験を、親たちの世代から聞いて育っているためだろう。
 でも、安政大地震は江戸東京(湾)の直下型で、今日では地下活断層のズレによる地震だと考えられており、だからこそ東京湾岸へ津波が押し寄せたのだ。関東大震災は太平洋プレート型の地震であり、東京湾への津波被害は湾の開口部を除いてほとんどなく、外洋に面した海岸線が大きな被害を受けている。安政大地震とは、まったく異なるタイプの地震だったにもかかわらず、劉生は津波の襲来については、期せずして正しい判断を下していたことになる。
 
 
 地震から1週間、少し余裕を取りもどした岸田家は、9月7日(金)にたまたま通りかかった馴染みの写真屋を呼びとめ、倒壊した自宅前で家族の集合写真を撮っている。それが、冒頭の写真だ。
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 朝の中片瀬の写真屋が通つて購買組合を開いたのでそれと分り、こはれた宅の前と二宮さんの仮居の前と、写真二枚づゝ写してもらつた。
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 自宅の母屋は全壊したが、アトリエに使っていた2階建ての洋館部はかろうじて倒壊をまぬがれている。幸運なことに、津波の波頭は岸田邸のアトリエまではとどかなかった。

◆写真上:1923年(大正12)9月7日に、自宅の全壊した母屋前で撮影された岸田一家。手前の浴衣姿が岸田劉生、劉生の背後が疲れきった様子の蓁夫人、子供たちの左端で麦藁帽子をかぶるのが麗子、麗子の背後に立っている右目上の眉へ負傷しているのが劉生の妹・照子。
◆写真中上:上は、同年9月1日午後3時ごろ目白崖線上から見た東京市街地の異様な積雲。大火災(大火流)で熱せられた地表温度から、このような積乱雲が形成されたものと考えられている。同日の四谷見附(中左)と牛込改代町(中右)。下左は、新宿駅の避難民で客車ではなく貨物の無蓋車に乗っている。下右は、日本橋のたもとにできた「牛めし・カレーライス」の屋台。
◆写真中下:上は、同年9月5日に陸軍の航空機(陸軍飛行第5大隊と陸軍飛行学校)によって撮影された写真の1枚で日本橋上空。白木屋は全壊しているが、三越本店は全焼しているものの耐火の建物は残っている。中左は、市街地の約90%が大火災で焼けた横浜の関内地区と横浜港。中右は、同じく全滅した元町(手前)と山下町(奧)。鵠沼のすぐ東南側に位置する、片瀬海岸の倒壊した西洋館(下左)と海岸沿いのユーホー(遊歩)道路(現・134号線)の惨状(下右)。
◆写真下:上は、2~3mほど隆起した大磯・照ヶ崎(左)と現状(右)。下左は、浜沿いに隆起した岩礁で新生代第三紀の「大磯層」と呼ばれる地層が多い。下右は、関東大震災で地中からせり上がってきた吉田茂邸Click!前の化石をふんだんに含む大磯層。

★いま、近所をひととおり歩いてきたのですが、下落合に大きな被害はなさそうです。旧・下落合の西部(中落合・中井2丁目など)は廻りきれませんでしたが・・・。中村彝アトリエClick!は、震度5強の揺れに耐えてなんとか建っています。ただ、軒下に崩落が見られますが、それが昨日の震災時のものかどうかは今のところ不明です。(上掲写真) 先週、前を通りかかって眺めたときも、崩れていたような気がしますので以前からのものかもしれません。