下落合753番地にあった満谷国四郎邸Click!の西隣り、同番地の敷地に邸をかまえていた洋画家に三上知治がいる。これまで、三上が記事の中で登場しているのは敗戦の翌年、1946年(昭和21)に設立された目白文化協会Click!のメンバーとしてだ。三上は、不同舎から太平洋画研究所へと進んでいるので、師である満谷国四郎とは親密だったらしく、おそらく満谷Click!の誘いで下落合にアトリエをかまえていたと思われる。ひょっとすると、満谷や金山平三Click!、南薫造Click!らとともに、アビラ村計画Click!へ参加していたのかもしれない。
 三上知治は、もともとは風景画家あるいは動物画家としてつとに有名であり、昭和に入ると鶴田吾郎Click!や吉田博Click!らとともに、明治期の浮世絵版画の手法を引きずった表現ではない、新版画ムーブメントClick!へも参加している。1924年(大正13)から翌年にかけて渡仏しており、1928年(昭和3)に開催された帝展では特選に選ばれている。しかし、戦時中は大量の「戦争画」を制作したことで、戦後は画家としての存在感が限りなく希薄化してしまった。
 三上は、油彩の大作として『蘇州空中戦(上海事変)』(1932年)や『マレー沖海戦』(1942年)など、早い時期から戦闘の場面を数多く描いているが、同時に前線における兵士の生活や風景、日本軍が占領した地域の情景などをスケッチ風に写しとり、水彩で着色した作品も大量に描いている。作品は、“戦場からの便り”というような体裁で、新聞や雑誌などに取り上げられることも多かったようだ。戦後は、1947年(昭和22)に設立された洋画団体・示現会へ鶴田吾郎Click!らとともに参加し、1974年(昭和49)に下落合753番地の同アトリエで死去している。
 三上知治が下落合で暮らした期間は、大正期から1970年代までとかなり長い。この地域の画家としては、およそ佐伯米子Click!に匹敵する長さだろう。大正期からの下落合の移り変わりを、見つづけてすごしていたのだろうが、下落合風景を描いた作品はあまり見あたらない。下落合へ引っ越してきてから描いたと思われる作品に、大正期の『郊外風景』と名づけられた作品が残されている。制作年代がハッキリとは特定できないのだが、高台から下に拡がる人家や草地、遠景の密集した住宅街やビル状の建築物を描いているところをみると、おそらく下落合の風景だろう。
 
 
 7~8mほどの高所、おそらく崖線(バッケClick!)の中腹からの眺めだと思ったのだが、すぐ崖下の人家を入れ、画面上部に地平線を取れ入れる構図で描かれている。空は狭く、いつも空を広めに取り入れている佐伯祐三Click!の『下落合風景』シリーズClick!とは対照的だ。手前には、ケヤキの若木と思われる木が左手に、もう1本の大きな樹木が右手に配されており、鳥瞰的な構図にもかかわらず画面の印象としては狭く感じる。晴天ではないのか、光線の射角がハッキリとはわからないが、やや画面左寄りのほぼ真上から射しこんでいるようだ。
 手前の人家の向こう側には、河川と思われる薄いブルーのラインが見えており、その周囲に拡がるのは河岸だと思われる。そして、川の向こう側には人家がビッシリ並んだ住宅街が見てとれるが、もっとも目が惹きつけられるのは、中央やや右寄りに描かれた大きなビル状の建築物だ。灰色っぽい絵の具で塗られたその構造物には、拡大すると細長い窓のような線が見てとれる。さらに、遠景には同様に河岸段丘状の高台の連なりが見え、画面の左端には丘上から斜面にかけて人家が、中央には樹木がかたまって生い茂っているように描かれている。
 大正の後半で、このような風景の見え方をするエリアとしては、三上がアトリエをかまえていた下落合東部に限定されるだろう。同じく川(妙正寺川)が流れていた下落合の西部は、これほどの人家が密集しているエリアはいまだないし、中央右寄りに描かれているような大きな構造物は存在していない。したがって、下落合東部の目白崖線沿いを眺めてみると、必然的に描画ポイントが限られてくる。すなわち、真ん中に見えている灰褐色の四角いビルは、佐伯祐三Click!や松本竣介Click!らも取り入れて描いている、1913年(大正2)に建設された東京電燈谷村線の目白変電所Click!だ。もちろん川は、いまだ直線化工事がなされていない蛇行を繰り返す旧・神田上水(神田川)で、川向こうに拡がっている住宅街は戸塚町(上戸塚=現・高田馬場3丁目)界隈ということになる。徐々に高くなっていく丘上には、ようやく商店街が形成されつつある早稲田通りClick!が走っているはずだ。

 
 
 わたしは当初、三上が目白崖線の中腹に上ってイーゼルを据え、風景をスケッチしているものと当然のことながら考えた。でも、崖下に雑司ヶ谷道Click!の存在が感じられないし、手前あるいは遠景に拡がる家々の密集の様子から、大正期の氷川明神社Click!あるいは薬王院Click!が建っている側とは思えない。雑司ヶ谷道は、目白崖線のすぐ麓に東西に通っているのであり、この画面には崖下に道筋が存在しているようには見えない。そして、なによりも神田川と目白変電所がこのように離れて見えるポイントは、自ずと限られてくる。真北に近い位置から描いたのなら、目白変電所は田島橋の南詰めにあるので川との距離はほとんどなく、川に接して描かれるだろう。川と変電所の間に住宅街が拡がるこのような風景は、描画ポイントをかなり東へずらさないとありえないのだ。そうすると、目白崖線は山手線の線路土手に遮られてしまう。
 そこで、ハッと気がついた。三上は、山手線の線路土手に上って描いているのではないか? 今日の山手線とは異なり、当時は線路土手を上って山手線を横断することができたため、事故Click!も少なからず起きている。また、線路土手はむき出しの土盛りのところが多く、今日の鋭角なコンクリート擁壁よりも傾斜ははるかに緩やかだった箇所が多い。
 さっそく、1923年(大正12)の1/10,000地形図を参照すると、下落合50番地あたりの線路土手から眺めると、このような風景に見えたであろうことがわかる。おそらく、渡仏する1924年(大正13)より以前、満谷に誘われて下落合に自宅とアトリエを建て引っ越してきたばかりのころに、付近を散策してこの風景を見つけ、スケッチしているのではないだろうか。2本の樹木がなければ、地形的にもよりはっきりしたことがわかり、さらに厳密な特定ができると思うのだが・・・。

 
 戦後に示現会を設立する直前、三上知治は1946年(昭和21)に目白文化協会Click!へ参加している。多くの画家たちも参加しているこのサークルで、三上はどのような活動をしていたのだろうか? 金山平三Click!とも親しかったらしい三上は、戦後に大石田へも出かけているようだ。やはり、下落合西部のアビラ村(芸術村)のプロジェクトへ、“村長”の満谷とともに三上も参加していたのだろう。ひょっとすると、刑部人Click!や島津一郎Click!とも顔なじみだったのかもしれない。

◆写真上:大正の後期に描かれたとみられる、三上知治『郊外風景』。
◆写真中上:同じく三上知治の制作で、上左が『目黒競馬場』と上右が『風景』。下左は『蘇州空中戦(上海事変)』(1932年)と、下右は『マレー沖海戦』(1942年)。
◆写真中下:上は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる描画ポイントの想定。中左は中央右寄りの大きな建築物の拡大で、中右は対岸の丘上にかけてつづく住宅街の拡大。下左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる三上知治アトリエ。下右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる三上邸で、隣りの満谷邸はすでに下落合595番地Click!へ転居している。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。目白変電所は改築されていると思われ、旧・神田上水の直線化や西武電車の敷設など、周辺の風情は大きく変わっているだろう。下左は、2007年の秋に解体された目白変電所。下右は、役目を終えた谷村線の高圧鉄塔。