まず、大正末の鉄道第一連隊の本部が津田沼ではなく、千葉(市内)であることは史的事実なので多言を要しないだろう。『中野区史』Click!の「千葉県津田沼の鉄道第一連隊」という表現は、「津田沼」を活かすのであれば「千葉県津田沼の鉄道第二連隊」、また「第一連隊」のほうを活かすのであれば「千葉県千葉の鉄道第一連隊」ということになる。
 わたしが読んだ西武鉄道の敷設に関する歴史本には、「千葉県津田沼の鉄道第二連隊」となっていたので、『中野区史』をベースに「津田沼」という地名を活かし、連隊名のほうを修正したものなのかもしれない。わたしも、それにもとづき西武電鉄の井荻-下落合間(高田馬場駅は未設Click!)は津田沼の鉄道第二連隊の演習によって線路が敷設された・・・と認識し記述してきたのだが、国立公文書館の陸軍資料を詳細に検証していくと、西武線の線路敷設演習には津田沼の鉄道第二連隊ばかりでなく、千葉の鉄道第一連隊も参加しているように思われる。すなわち、鉄道第二連隊と第一連隊の合同演習の可能性がきわめて高いことが判明した。
 なぜなら、西武線の井荻-下落合間の演習工事は、1926年(大正15)8月末から10月までの2ヶ月弱にわたって実施された、朝鮮慶尚南道の鎮昌線敷設演習が終了したあとの「延長戦」的な演習として行なわれているのであり、鎮昌線演習には千葉鉄道第一連隊から298名、津田沼鉄道第二連隊からは303名の将兵が参加している合同演習だったからだ。そして、朝鮮鉄道の鎮昌線の線路敷設で試験的に導入された、鉄道第一連隊の工兵曹長・笠原治長が発明した「新兵器」=「軌条敷設器」が、そのまま西武電鉄の敷設にもテストケースとして採用され、性能実験が繰り返し行われていることからもそれはうかがえる。これらの陸軍資料などから、西武線の井荻-下落合間の線路敷設演習には、鉄道第二連隊のみならず、「軌条敷設器」の発明者である笠原工兵曹長が所属していた鉄道第一連隊も、参加していたとみるのが自然なのだ。
 では、「軌条」(レール)の「敷設器」とは、いったいどのようなものだったのだろうか? 1927年(昭和2)1月13日に、近衛師団長・津野一輔から陸軍大臣・宇垣一成へ提出された「鉄道敷設器材審査採用ノ件申請」書類から、「軌条敷設器」の解説部分を引用してみよう。ちなみに、同書類は鉄道連隊が鎮昌線と西武線の演習を終えたあと、同器材の正式採用(制式採用)を陸軍大臣に具申したものだ。この申請書には、「軌条敷設器」の特長として次のような解説が添えられている。

 
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 一、引落作業ハ絶対安全ニシテ外傷者ヲ出サザルコト
  従来引落作業ハ稍(やや)危険ヲ伴ヒ連続長距離敷設間ハ多少ノ外傷者ヲ出シタルモ 本器ヲ使用セシ結果外傷者ナシ
 ニ、作業人員ヲ節約シ得ルコト
  従来八十封度(ポンド)軌条敷設ニハ十名ヲ要スルモ本器ヲ使用セハ六名ニテ充分ナリ
 三、敷設速度迅速ニシテ且作業中手ノ労力ヲ減シ能率ヲ向上シ得ルコト
 四、橋梁上或ハ道床敷置上ニ於テモ引落作業ヲ実施シ得ルコト
 五、構造単簡ニシテ要スレハ現場ニ於テ容易ニ作製或ハ修理シ得ルコト
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 これによれば、「軌条敷設器」はレール敷設の際にケガ人が多いため、安全性の向上をめざして発明された器材だったようだ。敷設器を使えば、80ポンドのレール敷設に10名を投入していたのが6名で済み、作業効率を高める効果もあったらしい。
 鉄道連隊による線路敷設は、民間の鉄道工事とはまったく異なり、死傷者が続出するほどの無茶無謀な突貫工事だった。それは、敷設作業のリードタイムをできるだけ短縮するために、危険な作業を猛スピードでこなすことからくる、安全性をかえりみない“戦死”覚悟の作業だった。先の朝鮮鉄道鎮昌線の敷設演習では、鉄道第二連隊の兵4名が殉職しており、負傷者も多数出ている。むしろ、死傷者が出ない演習のほうがめずらしい・・・といっても過言ではない。
 そのかわり、敷設工事は人海戦術によって猛スピードで行なわれ、わずか2ヶ月足らずで13哩(マイル)=約21km区間の複線が完成するというすさまじいものだった。東海道線でいうならば、わずか50日余で東京駅を起点にすると横浜の新子安の手前、生麦あたりまで線路を敷いてしまったことになる。もちろん、途中にある河川への鉄橋工事も含めた作業リードタイムだ。当然のことながら、通常の鉄道工事ではありえない、安全性を犠牲にした突貫工事だった。
 
 「軌条敷設器」は、おそらくレール運搬車両からレールを人手で敷設面へ落とす際、その下敷きになって手足を負傷する工兵の危険を、少しでも低減するために発明された「器材」だったように思われる。具体的な図面が保存されていないので、どのような形状をしていたのかは不明だが、西武電鉄の敷設では大きな威力を発揮したようだ。以下、敷設演習を終えたあとに出されたと思われる、1927年(昭和2)1月13日の近衛師団長から陸軍省への報告書から引用してみよう。
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 鉄道第一連隊付陸軍工兵曹長笠原治長ノ創意ニ係ル 別紙図面ノ軌条敷設器ハ 曩(さき)ニ朝鮮鉄道鎮昌線並ニ西武鉄道敷設演習間連続試用セシ結果 其ノ成績良好ニシテ左記ノ如キ有利ナル特長ヲ有シ 審査採用ノ価値充分アルモノト認メラレルゝニ付 表方審査ノ上制式器材トシテ採用方詮議相成度 (赤文字は引用者註)
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 明らかに、西武線の線路敷設演習を終えた結果を踏まえる表現となっており、1927年(昭和2)1月13日には少なくとも井荻から下落合まで、線路敷設工事を終えていたことを示唆する内容だ。約21kmの線路敷設を、わずか50日余でこなしてしまう鉄道連隊の施工リードタイムを考えると、特に地形的な難所も存在しない、西武線の井荻-下落合間(約8km)のほぼ平坦で直線状の線路であれば、2週間から3週間ほどの仕事だったろう。おそらく工事も容易だったのか、死傷者の報告もなされていない。したがって、『中野区史』にみられるように1927年(昭和2)1月から4月まで、3ヶ月余にわたる「短期間」の工事だったとする記述も、明らかに誤りだ。わずか8kmの線路敷設に、3ヶ月もの超「長期間」かかっていては、そもそも鉄道連隊の演習にはならないのだ。
 上記1927年(昭和2)1月13日の「軌条敷設器」に関する報告書兼申請書や、その周辺書類を参照するなら、西武線の井荻-下落合間の演習工事は前年、1926年(大正15・昭和元)の暮れのうちに結了していたのであり、朝鮮鉄道の演習からもどった鉄道第一・第二の両連隊は、1ヶ月余の休養のあと、再び「軌条敷設器」を装備して西武鉄道の敷設演習に向かっているものと思われる。

 
 そして、1927年(昭和2)1月から4月までの期間、陸軍と西武鉄道は同線を利用して東村山駅から下落合まで軍需物資(建築資材)Click!を輸送し、せっせと戸山ヶ原まで運びこんでいたのであり、その運搬作業自体も公文書としては残されていないが、陸軍による非公式の「軍需物資鉄道輸送演習」のひとつだったのだろう。そして、当時の下落合住民は西武電車の開通前に、目の前を何度も通過する貨物列車を不思議に思い、印象的な光景として記憶にとどめたのだ。

◆写真上:氷川社前の元・下落合駅跡あたりから撮影した、西武新宿線の軌条(レール)。
◆写真中上:上は、1927年(昭和2)1月13日に近衛師団長から陸軍大臣へ提出された「軌条敷設器」の採用申請。下左は、山手線をくぐる西武新宿線。下右は、西に移動した二代目・下落合駅。
◆写真中下:左は、1926年(大正15)5月に作成された朝鮮鉄道の慶尚南道鎮昌線における、鉄道第一連隊と第二連隊との合同による線路敷設演習を実施するための審案書。右は、1928年(昭和3)6月に作成された「軌条敷設器」に対する正式な採用通知。
◆写真下:線路敷設演習をする鉄道連隊写真で、写真3点とも『実録・鉄道連隊』(イカロス出版)より。鉄道第二連隊による線路敷設演習の様子。(上・下左) 下右は、千葉県勝浦海岸における鉄道第一連隊と鉄道第二連隊の合同による線路敷設演習。

★<西武線敷設に「新兵器」投入する鉄道連隊。(上)>にコメントをお寄せくださった菅原純さんのご教示Click!で、映画『指導物語』(熊谷久虎監督/1941年)を観たのですが、その中に津田沼鉄道第二連隊による線路敷設演習を撮影したシーンが挿入されています。軌条台車から、1本のレールを6名の兵士が抱え降ろし地面へ投下するシーンが映っていました。その場面で、レールを台車から降ろす際、それを支える器材として運用されているのが、記事末に掲載した三角形の“道具”です。これがおそらく、千葉鉄道第一連隊の笠原工兵曹長が発明した「軌条敷設器」ではないかと思われます。もっとも、同器材が発明されてから16年後に撮られた映像ですので、その形状や機能はより進化して、当初の姿とは多少異なっているのかもしれません。写真は、6名の兵士がレールから手を放したあと、「軌条敷設器」と思われる器材からレールが投下される瞬間です。