下落合と上落合の境界に架かる寺斉橋Click!の南に、林重義Click!と林武Click!のアトリエ(というか借家)があったことは、佐伯祐三Click!が寺斉橋を描いたと思われる「上落合の橋の付近」Click!をはじめ、あちこちの記事で触れてきている。寺斉橋周辺をめぐる一連の画家たちの動きは、まず落合地域へとやってきた画家を志す青年・大村麿紅がきっかけとなっているようだ。
★のちに上記「上落合の橋の附近」と思われた作品実物を日動画廊で間近に拝見し、「八島さんの前通り」(1927年6月ごろ)の1作であることが判明している。詳細はこちらの記事Click!で。
 つづいて、洋画家・小林和作が大村の紹介で1922年(大正11)に下落合へ住んでいる。でも、小林和作は野中にポツンと建っていた下落合の借家がさびしくなって、わずか7日ほどで上落合へ転居している。小林が最初に暮らした家は、もう少しするとアビラ村(芸術村)Click!と呼ばれるようになる、おそらく下落合の西部だったように思える。1978年(昭和53)に出版された『小林和作画集』(朝日新聞社)に収められた、小林の「東京の家」と題するエッセイから孫引きで引用してみよう。
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 私は大正十一年に京都から東京へ移り住んだ。それから昭和九年に東京を引き揚げて尾道へ移ったのだから、約十三年、東京にいたことになるが、その間に住居を四度かえた。(中略)/最初の家は下落合であった。これは私が捜したのではない。私の東京住まいの先発隊して(ママ)、大村麿紅という青年画家が、まず東京へいっていたのが、捜し当てた家である。/家が定まったというので、私はいよいよ東京住まいの決心をし、友人の林重義一家と女弟子ひとりを連れ、東京へ出た。そのころは私の妻子は郷里の山口県の家にいた。これは、私の母が寂しがって、私の妻子を郷里から出すのをいやがったので、その意向を汲んで、私は自分だけ先に東京へ出たのである。
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 このとき、佐伯の北野中学の先輩Click!だった林重義が、最初に移り住んだのが上落合725番地、すなわち寺斉橋から少し南へ下ったあたりの借家だった。1922年(大正11)の地形図を参照すると、下落合西部の丘上よりも妙正寺川をはさんだ上落合側のほうが、まだ人家が多くてにぎやかだったのがわかる。この年は、目白文化村の第一文化村が造成されて間もないころであり、下落合の西部は島津邸Click!の周辺を除き、まだまだ畑や野原が拡がる風情だったろう。上落合へ移り住んだ小林和作は、エッセイの中でつづけて次のように書いている。同画集から引用してみよう。
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 林重義君は、私の家から一町ばかり離れた家に一家三人で住みつき、つづいて林武君が重義君の筋向いの家に移ってきた。これは、私が、武君がまだ若くて、そう豊かでもなかったので、私の絵の方の指導者のような役をして貰うために迎えたのである。今から思えば私は大変に偉い家庭教師を迎えたもので、よくバチが当たらなかったものである。/つづいて梅原龍三郎、中川一政の家へ出入りして、絵の方の指導を受けることになったので、そのころは洋画家としては全然無名で、どこへも一度も入選したことのない素人画家であった私は、大変に立派な師匠を三人同時に持っていたようなもので、ある意味で、私ほど贅沢な洋画教育を受けた者は少ないかも知れない。
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 林武Click!が、ちょいと怖い幹子夫人Click!たち家族を連れて、上落合へ引っ越してきたときの様子を、今度は林重義のエッセイ「武さん」から引用してみよう。この文章は、1926年(大正15)に発行された「中央美術」9月号に掲載されたものだ。同じころ、林重義は4年近く住んだ上落合725番地から、近くの上落合716番地へ転居した時期に当たる。この上落合716番地の家こそが、寺斉橋の南詰めに相当する地番であり、フランスから帰国した佐伯祐三が訪ねた可能性のある家だ。
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 武さんと初めて会つたのは、まだ武さんが代々木に居た時分、地震の前の年の冬だつたか。僕が東京へ出て来て間もない頃だつた。夜訪ねたのだが、電燈が暗かつた様におぼえて居るその部屋で、奥さんが快活なせつかちな話しぶりで武さんの事を林が林がと云つて話して呉れた。筆の穂先が飛んでもかまわずに描いて居るんですよと云ふ様な事を云つて居た。武さんはあまり喋らずに、人情家らしくにこにこして居た。/それからしばらくして上落合の僕の家の向隣へ引越して来た。その当時小林和作君の家で武さんと一緒にモデルを描いた事があつたが、すてきな勢で筆をたゝきつけるので、イーゼルの金具がやかましくガチヤガチヤ音をたて、カンバスがお盆の様にひつこんだので、ちよつとおどろいた。
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 林重義の証言によれば、林武との面会はどうやら幹子夫人がもっぱら仕切り、林武自身はあまりしゃべらせてはもらえなかったようだ。w 林武は、上落合には2年ほどしか住んでいなかった。林重義が上落合725番地から、寺斉橋南詰めの上落合716番地へと移る1926年(大正15)9月より前、おそらく1925年(大正14)の早い時期に、林武は目白文化村Click!や落合府営住宅Click!のある下落合の北側、目白通りをわたった長崎村4095番地へと転居している。テーラー双葉さんClick!の中沼伸一様がたいせつに保存されていた、「下落合及長崎一部案内図」(出前地図)西部版Click!には、長崎4095番地に「林」の名前が採取されている。現在の、子育地蔵Click!が安置されているすぐ近くだ。さらに、引っ越し好きな林武(幹子夫人が好きだったのかもしれないのだが)は、この住居で暮らした期間も短く、1926年(大正15)の秋には長崎1336番地へと移っていった。現在の椎名町駅の北側、城西学園Click!から少し南に下ったあたりだ。

 
 上落合の画家たちは、よく集まっては遊んでいたようだ。当時の落合地域には、いまだ原っぱがあちこちに残っていたので、遊ぶ場所には困らなかったのだろう。着ているものをぜんぶ脱ぎ棄て、へこ帯で結んだフンドシやパンツいっちょの姿になって、草原を走りまわって遊んでいたところ、町会の青年団から「地元の恥になるから、どうかやめてくれ!」と嘆願される“事件”があった。同じく、1926年(大正15)の「中央美術」9月号に掲載された、林重義の「武さん」から引用してみよう。
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 その頃はまだ落合も今の様に家も建て込まず、僕の今居る辺は地ならしをした広場であつた。そこで球投げや走りつこをよくした、或日、少しあばれすぎて、僕もキモノをぬいでパンツ一つになつたかと思ふが、武さんは黒の兵子帯を褌にしてはだかになつてしまつた、そのすがたで広場を縦横に走り廻つて居たら、青年団員に、そんな姿をされてはこの土地の恥になると妙な小言を食つたことがある。/一体武さんは運動はあまりやらない、或は向かないのかも知れない。球の投げ方もラケツトの振り方も何だか少し変だ、流行の言葉で云へば稚拙感があるのだ。
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 素っ裸に近い男が、空き地でキャーキャー走りまわっていたら、すぐ近くの道を歩く若い女性は目を合わせないよう顔を伏せて、小走りに逃げていっただろう。このふたりばかりではない、おそらく着物を質屋に入れ外出着がなくなると柔道着を着ては下落合を歩いていた女性(甲斐仁代Click!)や、そこらの野原で雲虎Click!をしてしまう「浮浪者」みたいな男(佐伯祐三)、ときどき目の色を変えて坂道を上り下りする「土工」のような大男(長谷川利行Click!)、仮装姿のまま外出してしまい町会では手にあまる変人(金山平三Click!)など、奇妙奇天烈な洋画家たちがあとからあとからやってくるので、落合町の“品位”を少しでも向上させたい町会は、アタマを抱えていたにちがいない。
 ここに登場している上落合の「青年団」だが、寺斉橋の近くだということを考慮すると、おそらく上落合字栗原下を中心に組織された、「栗原親和会」Click!の青年部メンバーだと思われる。
 
 
 林武は、身体つきがガッチリしていて強そうに見えるのだけれど、実は案外弱くて神経質だったようだ。病気になると、とたんに弱気になって“悲観論者”となり、林重義はずいぶん弱音やグチを聞かされたのか、「少し病気には弱気すぎる」と書いている。へこ帯をフンドシがわりにして上落合を走りまわっていた林武は、本人にしてみれば身体を鍛えているつもりだったのかもしれない。

◆写真上:妙正寺川架かる寺斉橋で、画面のすぐ左手あたりに林重義が住んでいた。
◆写真中上:左は、下落合にはわずか1週間しか住まず、さびしくなって上落合へすぐに転居した小林和作の『秋山』(制作年不詳)。右は、1911年(明治44)の落合地域地図にみる上落合725番地と同716番地。大正中期までが同様の地番で、大正末から昭和初期にかけ寺斉橋南側に残る道路のクラックを修正する工事とともに、一帯の地番変更が行われている。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)の上落合で落合第二小学校(現・落合第五小学校)の西には、まだかなりの空き地が残っている。下左は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三の「上落合の橋の附近」とみられる『下落合風景』Click!。下右は、林武『熱海風景』(1958年)。
◆写真下:上左は、林重義『雪山』(1938年)。上右は、林重義『将棋をするピエロとアルルカン』(1929~31年)。下左は、大きな建物が消えるとすぐに原っぱ化する落合地域。下右は、1925年(大正14)4月発行の「出前地図」西部版に採取された長崎4095番地の林武邸。