1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!で、南関東の鉄道網は壊滅的なダメージを受けた。大きな河川に架かる鉄橋は揺れで次々と崩落し、トンネルは土砂崩れで埋まり、線路や駅舎は揺れと津波とでズタズタに寸断され引き裂かれた。でも、今日のわたしたちが想像するよりも、鉄道の復旧ははるかに早く、驚異的なスピードだったと言ってもいいだろう。大震災が起きた翌月10月には、応急工事ながらも一部の区間を除き、ほぼ全線が開通していた。
 なぜ、これほどスピーディな復旧が可能だったのかといえば、当時は物流のほとんどを鉄道に依存しており、救援物資や復旧資材を運搬するには、まずなによりも鉄道を元どおりにしない限り、復興計画が前へ進めなかったからだ。つまり、震災復興の全エネルギーを、9月1日直後から鉄道網の復活に注いでいたのだ。今日のように、物流の多くがトラックによる道路輸送ではなかった大正期、鉄道の交通網確保はまさに復興へ向けた生命線だった。だから、不足している鉄道資材が関西方面から船で東京湾に到着するやいなや、南関東の復旧現場へすばやく分配され、夜を日につぐ工事がすさまじい勢いで進められていった。
 当時の様子を、1925年(大正14)に(財)科学知識普及会から発行された『科学知識』4月号から引用してみよう。ちなみに、誌名が『科学知識』と付いていると、なんとなく小中学生向けの啓蒙雑誌のように感じるのだけれど、同誌は大人向け(企業人向け)に発行された専門誌で、どこかビジネス誌のような雰囲気さえ感じられる、大正時代の総合科学雑誌だ。
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 鉄道省に於ては、事変発生と同時に線路の開通を図り、鉄道関係者殆ど総動員の努力に依り、震災の翌十月主要幹線の全通を見る事を得、次いで惨害の甚しかつた支線中北条線岩井富浦間を十一月、横浜桜木町間を十二月に開通せしめ爾後復旧工事を急ぎ、昨十三年十月熱海線根府川真鶴間白糸川橋梁惨壊箇所を徒歩連絡するのみで全線の運転を恢復したが、本年三月この空前の災厄に処してかくも急速順調に別段事故を惹起する事なくして敏速に交通を復旧し、以て帝都を始め震災地の避難、救護、物資の供給に至大の貢献を為し、混乱に際し速かに安寧秩序を恢復して、鉄道史上に稀なる記録を遺したのは、みな従事員一般の奉公犠牲の精神の然らしむる所であつたと共に、平素の訓練連絡宜しきを得、準備の整頓せるに依り、且つは東京鉄道局其他常務者の画策実行の周到果断であつた功も亦少くない。
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 工事が難航したのは、熱海線(現・東海道線)の根府川駅で、地震と同時に線路やホーム・駅舎が、停車していた列車ごと山津波に襲われて海へ墜落し、同時に海からの大津波で約240名の犠牲者を出して壊滅した地点だ。また、真鶴-熱海間の河川に架かる鉄橋の崩落や、トンネルの崩落被害も多かった。揺れがもっとも大きかった茅ヶ崎-平塚間を流れる相模川(馬入川)で、全壊した東海道線の馬入川鉄橋の復旧。そして、東京市街では中央線の御茶ノ水駅から水道橋駅にかけ、神田川両岸の大規模な崖崩れの修復工事などが難航した。これらの被災現場には、特に多くの作業員が投入され、大規模な工事が急ピッチで進められている。
 

 また、千葉に本拠を置く陸軍の鉄道連隊Click!の存在も大きかった。鉄道連隊というと、鉄道計画の線路工事現場へと出動し、演習という名目で用意された建設資材を引き受けて工事を進めるようなイメージがあるけれど、実情はまったく異なっている。鉄道連隊自体が、すでに長距離の大規模な鉄道を建設するためのレールや枕木、機関車、貨車、工機その他すべてを連隊の専用倉庫に備蓄しているのだ。だから、線路敷設のニーズがあれば、即座に出動して工事をスタートすることが可能だった。関東大震災では、市街地の90%が大火災により壊滅した横浜方面へ出動し、東海道線や横浜線の復旧工事を引き受けている。
 特に目立った鉄道被害について、『科学知識』の記事はつづけて次のようにまとめている。同じ相模湾沖を震源地とする次の関東大震災でも、同じような地点で被害が出る可能性が高い。
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 東海道線では六郷川(引用註:多摩川)橋梁の橋桁の傾斜移動したのを修復し、横浜線の橋桁が東海道本線上に墜落したのを引上げて再び架渡し、馬入川の橋梁の惨壊したのは木造橋脚を仮設して墜落した橋脚を引揚げ架渡し単線運転し、山北駿河間で一万余坪の崩壊土砂岩石が線路を埋没したのは土砂岩石中を切拓き、これを隧道の様に被覆し、其の中を列車を通じ、又駿河足柄間第五相沢川橋梁は馬入川同様の工法に依つて開通せしめ、熱海線酒匂川橋梁の巨大な橋桁が転覆した箇所は木造橋脚を仮設し他から橋桁を運搬架設し、中央本線の御茶水、水道橋間で外濠に添ふた断崖の地辷りしたのは、土留工を仮設し路盤を填充し、与瀬隧道の崩壊閉塞したのは地表より掘返し(深約四十呎)切開部に土留工を仮設し、東北線荒川橋脚、利根川橋脚は六郷川同様施工し、総武線では土気道隧(ママ)崩壊閉塞を与瀬隧道同様地表より切開し、湊川橋梁橋脚の切断したのは木造仮橋脚により、南無谷隧道の崩壊閉塞したのは両口より掘進して巻直し第一瀬戸川橋梁の惨壊したのは馬入川橋梁同様の工法に依つて応急修理した。
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 これらの応急修理に要した費用は、当時の金額で1,000万円を超えている。でも、大震災が起きた1923年(大正12)の年内に、応急修理によってほとんどが開通しており、元どおりの「原形」に復旧する工事も早々にスタートしている様子がわかる。「原形」への復旧工事は、トータルで4,000万円を要したことが1年半後に判明している。
 現在の首都圏では、物流のみに限っていえば道路の復旧が一義的な課題になるのかもしれないが、物流のロジスティクスや被災地のコミュニケーション(情報流)を支える基幹ネットワーク(少し前までNGNと呼ばれたxxGbit光ファイバー)の多くが、地上地下の別なく鉄道網を利用して敷設されていることを忘れてはならないだろう。これらが壊滅してしまえば、いくら強固なデータセンターでサーバ群が活きていたとしても、ネットワークが死んでしまったらなんにもならない。現に、今回の東日本大震災ではデータセンターのほとんどが活きていたのに対し、ネットワークケーブルが250万回線分と無線・携帯の基地局が1万4,200箇所も破壊され、ネットワーク全体がまったく機能しなくなっていた。東京では、災害に備えたネットワークの物理的な冗長化も、膨大なコストがかかるかもしれないけれど不可欠な課題のひとつだろう。
 今日的な視点でみれば、鉄道網の復旧は単に人々を運ぶ交通路の確保というテーマばかりでなく、首都圏の大規模なネットワークインフラの回復をも意味することになるのだろう。首都圏のネットワークインフラが壊滅してしまえば、日本全体のネットワークが決定的なダメージを受けることになる。
 『科学知識』の編集者は記事の最後に、「編集記」として次のように書いている。
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 科学の威力は如何なる場合にも発揮されて文明の基礎を培かひつゝあるが、これが運用には科学よりも偉大なる人間の力を必要とする。鉄道の復興にも従業員の努力の記すべきもの少くないが頁数の関係で省略した。
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 大規模な災害からの復興には、時代を問わず大正期も現在も、やはり圧倒的な“人海”の投入であることに変わりはないだろう。合理化や効率化、生産性の向上、TCO削減などで人を減らしつづけてきた業務の現場が、もっとも災害からの復旧が遅れる非効率を生むのかもしれない。時代は変わり、発想の転換が迫られているように感じるきょうこのごろ。

◆写真上:壊滅した馬入川(相模川)Click!に架かる、茅ヶ崎-平塚間の東海道線「馬入川鉄橋」。正面に見えているのは、高麗山から湘南平(左)へとつづく大磯丘陵の山並み。
◆写真中上:上左は、1925年(大正14)の『科学知識』4月号に掲載された「鉄道の復旧工事」。上右は、南関東を走る鉄道における膨大な被災件数。下は、被災した鉄道網と重大被害地点。
◆写真中下:上は、墜落した御殿場線の相沢鉄橋(左)と、応急修理後の同鉄橋を走る汽車(右)。下は、鎌倉を襲った津波による大町の惨状。由比ヶ浜や材木座の街並みを呑みこみ、横須賀線を破壊して大町まで到達している津波の高さは、おそらく10m前後だと思われる。
◆写真下:左は、1928年(昭和3)の『科学知識』10月号。右は、下落合にもゆかりの深い島津製作所による1925年(大正14)の『科学知識』4月号に掲載された大正期のバッテリー広告。「蓄電池の文化々」というキャッチフレーズが、「文化」化流行りの当時をうかがわせて面白い。