晩年の中村彝Click!の作品には、髑髏がたびたび登場する。彝は髑髏のことを「オシャリ」と呼んでいたことが、曾宮一念Click!などの証言からうかがい知ることができる。これらの頭蓋骨は、友人の多湖實輝Click!が第一高等学校の生物教室に勤務していた関係から、多湖に頼んで同校の標本室から次々と借りては描いていたようだ。
 活きいきとした人物画を数多く描いてきた彝が、物言わぬ髑髏をモチーフに静物画ばかりを描くようになったのには、従来の静物画の構図を破って新しい画面を創造してみよう・・・という表現上の試みもあったようなのだが、結核の病状が進み、もはや生きたモデルを前に長時間キャンバスへ向かう力が、あまり残ってはいなかったことも影響しているのだろう。静物画であれば、体調のいいときを選び、少しずつ細切れに制作をつづけることが可能だ。彝は関東大震災の直前、1923年(大正12)の夏ごろ、制作の合い間に髑髏についての詩「不思議な笑ひ」まで書き残している。
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  不思議な笑ひ
 何故か髑髏は/何時見ても/横目で物を睨んでゐる、
 何時見ても/道行く盲者が空ばかり/たえずにらんで居る様に。
 何時見ても/髑髏は何故か笑つてゐる、
 何時見ても/歩む盲者がわけもなく/たえず笑つてゐる様に。
 おゝこの笑ひの不思議さよ、/世の煩ひをあざ笑ふ/皮肉の笑かさにあらず、
 さりとて悟りの微笑にあらず、/寂しい苦笑か泣き笑ひか、/自己憫笑かさにあらず。(後略)
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 彝は、古い板切れでイスのような台を作り、その上に「オシャリ」を載せて絵の具が付着した布をあてがい、周囲には近くの左官屋から調達したレンガを散らしている。背景になる腰高の板壁には、寒暖計やひも状の“なにか”を吊るして構図を整えている。この壁は、描かれた作品の光線からもわかるように、改築前のアトリエ東側の壁であり、『エロシェンコ氏の像』Click!では彼が座ったソファが置かれていた側の壁だ。彝は静物画を描くときなど、手間ひまかけてかなり凝ったモチーフや構図を作りこんでいるのが、他の作品Click!でも見てとれる。同年9月1日に発生した関東大震災Click!により、この東側の壁は崩れモチーフやキャンバスは土壁の破片の下敷きになった。
 
 
 
 1923年(大正12)8月に、朝日新聞社の記者が下落合の彝アトリエClick!を訪問している。関東大震災が起きる数週間前で、彝は『髑髏(オシャリ)のある静物』(1923年)の制作に没頭していた。この記事では『エロシェンコ氏の像』以来、彝は結核の悪化でベッドに横たわったまま、まったく絵筆をとらなくなってしまったように書かれているが、その間にも、アトリエでオーディションをして雇ったモデル・小島キヨClick!(のち辻潤Click!夫人)を描いた『椅子によれる女』(1921年)や、彝には馴染みのモデル“お島”を描いた『女』(1921年)など、次々とタブローを産み出している。1923年(大正12)に朝日新聞社が発行した「アサヒグラフ」8月15日号から、その日の様子を引用してみよう。
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 裸で『髑髏』を描てゐる病画家/四年振り絵筆を執た中村彝氏
 『エロシェンコの像』を発表して以来不幸にも病床に横たはつたまゝ四年間全く絵筆をとらなかつた洋画壇の巨星 中村彝氏が先日から久しぶりにカンバスに向つてゐる。中村氏の絵=あのルノアールを想はせる深刻な筆触が此の秋の帝展を明るくするといふ噂は今から洋画の人々を期待させてゐる。病ながら昨年は審査員に挙げられパリーの美術館から「世界的美術家の一人」として推奨された中村氏が白い病床の中で四年越し心に描いて描きつゞけたその結晶が今 下落合の氏のアトリエで二十号のカンバスに描かれつゝある。昨日の昼下り赤瓦を目あてに訪れると中村氏は子供の様なこだわりの無い表情にオゾーンパイプを口にして医者の云ひつけだと裸体で描いてゐる題材は『頭蓋』である。『西洋人の女の頭蓋骨ですよ』と中村氏は云ふ・・・(後略)
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 結核患者に対し、遠藤繁清医師Click!がなぜ裸ですごすように奨めたのかはよくわからないが、記者の見たとおり、彝はアトリエで裸になって仕事をしていた。「秋の帝展を明るくする」作品を描いているという噂から、楽しみに彝アトリエを訪れた記者は、モチーフを見て暗然たる気分になっただろう。しかも、作品は1点や2点ではなく、そこいらにあるキャンバスやスケッチは「オシャリ」だらけだったにちがいない。現在まで残っている作品だけでも、作品集や図録で確認できる限り、『髑髏のある静物』は5点にものぼっている。9月の関東大震災により、この年の帝展は開催が中止されているので、「帝展を暗く」しかねない同作はついに展示されることはなかった。

 彝は多湖實輝に頼んで、さまざまな人種や民族の「オシャリ」をとどけてもらった。アトリエでは、多湖とともに「オシャリ」オーディションを行ったのだろう。それは、現在残されている『髑髏のある静物』を見比べてみると、頭蓋骨のかたちが微妙に異なっていることからもうかがえる。記者のインタビューに、彝は「日本人、外人、と描いて見たが夫々に人種の特長がある。是は西洋人の女のですがアイヌのは前頭部があれ程出てません」と答えている。
 また、記事に掲載されている『髑髏のある静物』の画面写真は、すでに仕上がっていた作品の写真ではなく、彝の制作途中の画面を写したものと思われ、いまから見るとたいへん貴重だ。現在まで残されている同作のうち、記事に掲載された写真と一致する作品は存在しない。おそらく、いずれかの作品の未完成な姿ではないかと思われる。
 もうひとつ、記事には「オゾーンパイプ」という聞きなれない用語が登場している。オゾンパイプは、大阪市北区にあったオゾン商会が発売した、結核や肺炎に効くというふれこみの健康器具だ。新鮮なオゾンを吸うことで、体内には殺菌効果があるのと同時に血液中の白血球を増加させて病気への耐性を高める・・・という効能だったようだ。また、タバコをやめたい人にも、禁煙パイプとしてよく効くという宣伝で発売されたものだが、今日的な視点から見ればもちろん、ほとんどなんの効果もない、ただの気休めのような健康器具だろう。
 結核を発症しているのに愛煙家だった彝は、さっそく買って試してみたものだろうか? オゾンパイプで禁煙ができ、同時に結核が快方に向かえばと考えたのかもしれない。ちなみに、1921年(大正10)ごろアトリエで撮影された写真に、タバコをくわえているように見える彝の姿Click!があるが、ひょっとするとこのオゾンパイプを吸っているのかもしれない。また、作品の中にも白いパイプが描かれた『向日葵』(1923年)が存在するが、これもオゾンパイプのバリエーションの可能性がある。
 
 大震災でアトリエ東側の壁が崩れ、描いている途中のモチーフはもちろん、キャンバスとイーゼルもろとも壁土の下敷きになってしまった『髑髏のある静物』だが、どの作品がそれに相当するのかはわからない。記事に掲載された、制作途上の作品だろうか? 大震災後、彝は近くの鈴木良三Click!宅へ避難Click!するのだが、震災を境に彝の創作意欲は急な高まりClick!を見せている。
 中村彝アトリエの解体・再築の過程で、万が一、天井裏あるいは床下から「オシャリ」さんが出てきても、下落合横穴古墳群の骸骨Click!と同様に文化財であり、彝のたいせつなモチーフなので、「殺人事件」と勘違いして戸塚警察署に110番してしまわないようお願いしたい。(爆!)

◆写真上:1923~24年(大正12~13)に制作された中村彝『頭蓋骨を持てる自画像』へ描かれた、手に持つ髑髏(オシャリ)部分のクローズアップ。
◆写真中上:すべて、1923年(大正12)に描かれたと思われる中村彝『髑髏のある静物』。下右は、オゾンパイプのバリエーション商品と思われるパイプが描かれた『向日葵』(1923年)。
◆写真中下:1923年(大正12)8月に発行された、「アサヒグラフ」8月15日号の記事。
◆写真下:左は、彝が愛用していたオゾン商会による「オゾンパイプ」の媒体広告。右は、彝が病みつきになって飲みつづけたカルピスClick!の媒体広告。「鉄道旅行の芸術化とカルピスの呼売」というキャッチフレーズは、いくら考えても意味不明なのだが・・・。