落合地域には、古くから伝わる幽霊話や妖怪譚が少ない。せっかく化けて出ても、あたりが田畑だらけの江戸期には、オバケも生き甲斐(?)がなかったのだろう。このサイトでも少しずつご紹介はしているけれど、すぐにネタが尽きてしまうほどのボリュームだ。現代の「心霊現象」Click!をはじめ、七曲坂の大蛇伝説Click!、西落合に隣接した哲学堂にいる幽霊姉さんClick!から生まれたらしいエピソード、目白崖線の斜面に出る狐火Click!(狐の嫁入り)の目撃談、まだご紹介してないけれど金龍が飛んだ話・・・などなど、あまり深刻ではなく他愛ない話ばかりだ。
 むしろ、高田の南蔵院を中心に“落合土橋”も登場する「怪談乳房榎」Click!や、目白四ツ谷(家)の「東海道四谷怪談」Click!など芝居や講談のほうが、よほどおどろおどろしくて怖い仕上がりとなっている。オバケ坂や幽霊坂が、いくつも存在する土地柄なのに、かんじんの怪談や妖怪のフォークロアが希少・希薄なのだ。だからこそ、「バッケ」Click!(崖地・急斜面)という地形を表す地名が「オバケ」、さらには「幽霊」へと転化していったものだと想定することもできるのだが・・・。
 関東大震災Click!のあと、落合地域に宅地の造成が進み住宅建設ラッシュがはじまると、それに比例してオバケ話や幽霊譚もちらほら増えていく。いずれも、比較的早めに住宅街が形成された上落合地域での話だが、家の障子にいるはずのない男の影がぼんやり映ったり、便所の天井から若い女(花子さんのお祖母さん?)が見つめていたりとか、落合地域の人口が急増するにつれて、今日的な怪談話やオバケの目撃譚が多くなっていった。
 その中に、非常にリアルかつ正確な幽霊の記録が残っている。しかも、ひとりだけの目撃ではなく、子どもや若い衆が集団で目撃していることから、「信憑性」が高いエピソードだ。幽霊が出現したのは、1937年(昭和12)7月20日の小雨がそぼ降る午後9時20分ごろと、まるで警察の調書なみにしっかりした記録だ。この目撃談が掲載されているのは、1983年(昭和58)に出版された『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)で、幽霊と正面衝突しそうになった話として紹介されている。東中野駅(旧・柏木駅)に用事があった著者は、上落合から仙波山の華洲園Click!住宅街(小滝台)を通る道の途中、藤堂伯爵邸の前から桜並木がつづく6m道路上で、若い女性の幽霊に遭遇している。

 
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 とても淋しい所で、夜になると人一人通らなくなってしまいます。その道を藤堂さんのお屋敷の前まで来ると、真っすぐになっていた。丁度藤堂さんの前まで来ると、約百米位先の左側の外灯のソバに、白いものが立っていた。「出たナ!!」と直感した。しかし、今更戻る訳にもゆかない・・・と思い前進した。次第に近づくに従ってその白いものは、二十二・三歳の中位の背丈で色の白い丸顔の髪の毛が黒い女性がタオルの寝間着を着て立っていることがわかりました。足の方は、着物が丁度山のスソのようになっていました。/尚も直進して行くと正面衝突寸前になった。すると彼女が左の方に一~二歩動いてくれたので、丁度肩がスレスレにすれちがうことが出来ました。その瞬間、背筋に氷が流れるような思いでした。二・三度振り返って見ましたが、彼女もこっちの方を見ている感じでした。東中野駅で用事をして再びこの道に入るとまだ居た!
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 子どもがぶつかりそうになると、白いタオル地の寝巻を着たお姉さん幽霊は、親切にも道を譲ってくれているようなので、かなり謙虚な性格のオバケだったらしい。ここで注意したいのは、なにも物語や因果関係が付随せず、著者の前に突然幽霊が出現している点だ。
 幽霊がなぜ出現するのか、あるいはその場所には必然的な謂れや因縁があるから、夜な夜な若い女性の幽霊が悲しがって、またこの世に未練を残して、さらには恨みを抱いて怨念とともに化けで出る・・・といったような、背景的な物語がいっさい存在していない。幽霊は、ある日突然に出現し目撃されることになる。つまり、怪談の展開が、非常に現代的な装いをしているのにご留意いただきたい。今日的にいうなら、さしずめその場所に棲みついた「地縛霊」が、通りすがりの人へなにかをアピールしに出てきた・・・とでもいうのだろうか?
 すなわち、大正期以降の住宅街で語られるオバケ譚や怪談は、今日の幽霊話や都市伝説にも似て、背景となる因縁や由来などの物語性が非常に希薄なのだ。これが、江戸の市街地で語られてきた怪談や幽霊譚と、本質的に異なる点だ。もっとも、それらしい因果物語が付随せず、唐突に出現するところがより不気味であり、気持ちが悪いということなのかもしれないのだが・・・。


 お姉さん幽霊は、子どもがおつかいから帰るのを律儀にも待っていてくれたようで、帰り道でも著者に目撃されている。そして、自分ひとりの目撃では誰も信用してくれないと考えた著者は、自宅(店舗を経営していて、若い奉公人たちがたくさんいたようだ)へともどり、若い衆を連れて現場へ引き返すのだが、お姉さん幽霊は感心なことにまだ彼らを待っていてくれた。
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 藤堂さんの前まで行くと“居た居た”まだ立っている。私達はオソルオソル近づき、彼女の囲り(ママ)に丁度、半円形になって止った。その距離は四米位。誰れとなく、砂利をひろって投げつけた。我れも我れも・・・と石を投げつけたのです。石は命中している筈ですが、命中の反応さらになし! そのうちに彼女はソバの門の中に入ってしまいました。相手が居なくなると急に恐しくなり、「ワー」と逃げ帰えったのです。(中略) その翌朝早く、一人で現場に行ってみると、彼女が入っていった門は木で出来ている門でクサッていて、押しても引いても開く代物ではなかった。また門の奥の方にこわれた屋敷が木の間から見えた。とても人間が住めるような家ではありませんでした。
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 かわいそうに、せっかく出てきた謙虚そうなお姉さん幽霊なのだから、ついでに話でも聞いてあげればいいのに、理不尽にも彼女は砂利や石をぶっつけられ、「廃屋」の中へ消えていってしまった。それとも、華洲園のお屋敷街で、「わたくし、久々に実家へもどって夕涼みをしておりましたら、どこか近所の悪ガキどもがわたくしを取り囲んで、いきなり石や砂利をぶっつけて逃げていきましたのよ! もう、ほんっっとに失礼しちゃうわ!」というような、戦前の逸話は残っていないだろうか?(爆!)
 
 
 江戸時代から明治期にかけて、江戸東京の市街地で語り継がれてきた怪談には、“因果はめぐる”式の応報話や由来物語が必ず付随している。それに対し、大正期以降に開けた街では、わけもわからずに幽霊が出現して人を驚かすことが多い。そういう意味では、上落合に伝わる怪談のほうが現代的であり、いまと同様に都市伝説的な装いをした幽霊譚といえるのだろう。

◆写真上:藤堂伯爵邸跡の角までくると、華洲園の中央通りは直線になって遠くまで見通せる。
◆写真中上:上は、大正中期ごろに撮影された「華洲園」花圃でのちに移転している。下左は、幽霊を目撃した著者が上落合からのぼった華洲園住宅地(小滝台)への坂道。坂の右手住所が東中野で、左手の住所が上落合。下右は、昔日のままの折れ曲がった仙波山の道路。
◆写真中下:上は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる華洲園住宅地(小滝台)。下は、1936年(昭和11)に撮影された同所で、宅地の区画がみんな500坪以上はありそうな屋敷街だ。
◆写真下:上左は、藤堂伯爵邸跡の一画。上右は、中央通りを反対側から上落合方面を向いて撮影したもの。お姉さん幽霊は、おそらく横断歩道の少し先の右手へ出現したと思われる。下左は、中央通りと西端で交わる幽霊坂。下右は、急峻な斜面に通うバッケ坂のひとつ。