陸軍参謀本部の陸地測量部が1909年(明治42)に作成した、早稲田と新井1/10,000地形図の初版画像を入手した。落合地域が、同地形図で表現された最初期のものだ。それ以前に作成された地図は、1886年(明治19)の1/5,000地形図が残っているけれど、下戸塚や戸山地域で途切れており落合地域は測図されていない。また、新宿区教育委員会が出版した『地図で見る新宿区の移り変わり-戸塚・落合編-』には、1910年(明治43)の修正図と思われる版が掲載されているが、それ以前の最初期1/10,000地形図は、初めて目にするものだ。
 下落合の東部(現・下落合1~4丁目)には、陸地測量部が設置したもっとも標高が高いポイント、36.5mの三角点がすでに描きこまれている。現在の下落合みどりトラスト基金Click!が、緑地公園としての保存を求めている“タヌキの森”Click!のピークポイントだ。前田子爵邸の移築建築だった旧・遠藤邸母屋(服部建築土木Click!)の、北西に建っていた蔵のかたわらに3等三角点は設置されている。下落合西部(現・中井2丁目)で、もっとも標高が高い地点は字(あざな)でいうと下落合大上(おおうえ)、目白学園のキャンパスを含む37.5mの丘上一帯で、ここが落合地域における目白崖線の最高地点となる。でも、参謀本部の陸地測量部は、なぜかこちらに測量用の標識(三角点・水準標・独立標・高点など)を設置していない。より標高が高い37.5m地点に標識を設置したほうが、1mほど低い36.5m地点よりも三角測量には便利だったと思われるのだが・・・。
 これはわたしの想像だけれど、おそらく下落合東部の測量が明治期の早めに行われたため、下落合西部のより高い37.5mを超えるピークが測量によって確認されたときには、すでに下落合768番地Click!の地点に3等三角点を設置したあとだった・・・ということなのだろう。3等三角点は、一度設置してしまうと半径4km以内には再設置することができない。
 余談だけれど、下落合の西部には大上と小上(こうえ)という字が、江戸時代からつづいている。昭和初期まで、小上Click!の字は残ったものの、大上のほうは大正中期に「中井」という字に変更されている。新宿区の資料には、「中井」というのはより古い地名にあるとの解説が見えているが、わたしは実際に中井と書かれた絵図も地誌も、いまだ不勉強で目にしていない。このとき「中井」への字変更を境に、大正後期から「中井御霊社」あるいは「中井不動」という呼称が生まれていた可能性がある。広域名の「落合」ではなく、字を冠にして旧跡を呼称していたとすれば、明治期以前は「大上御霊社」あるいは「大上不動」と呼ばれていたものだろうか? 明治から大正前半の1/10,000地形図を眺めてみると、いまだ下落合字大上のままで字中井は登場していない。

 さて、目白駅に近い下落合東部を眺めてみると、目白停車場Click!はもちろん金久保沢Click!の谷間に設置されている。目白通り(清戸道Click!)沿いには、近衛篤麿Click!による東京同文書院Click!の建物が採取されており、近衛町の位置にはいまだ近衛旧邸Click!が見てとれる。玄関前の車廻しClick!(馬車廻し)も描かれており、また近衛邸の西北西に位置する落合遊園地Click!(のち林泉園Click!)の池には2本の小さなClick!が架けられ、庭園としてすでに整備されていた様子がうかがえる。目を崖線沿いに移すと、御留山Click!の中腹には藤稲荷社の鳥居が描かれ、丸山Click!の字(あざな)はいまだ丘上ではなく、本来の位置らしい崖下に記載されている。
 目白通りの向かい側を見ると、雑司谷旭出(のち高田町→豊島区目白町)には徳川家の姻戚である大きな戸田邸Click!が建設されている。のち、尾張徳川家Click!が邸をかまえることになる、今日の徳川黎明会Click!の敷地だ。池袋停車場の周辺には、まだほとんど家が建っておらず尋常師範学校Click!のみがポツンと見えるが、上屋敷Click!(あがりやしき)から巣鴨代地には家々がかたまって見えている。いまの目白庭園あたりの一帯だ。
 現在の下落合と中落合の境あたり、当時の下落合中部で本村という字(あざな)で呼ばれていたエリアを見ると、すでに西坂上には徳川邸Click!が建設されているのが見える。不動谷Click!の字は、諏訪谷の反対側に口を開けた谷戸Click!に沿って記載されており、のちに霞坂が拓かれる崖地の上には、会津八一Click!の秋艸堂Click!が採取されている。この時期、落合村役場は落合小学校Click!の門前ではなく、いまだ小学校の敷地内にあったことがわかる。

 下落合西部から、上落合にかけて目を向けてみると、上落合から柏木(東中野)にかけて「大塚」の地名がいくつか目につく。上落合の大塚は、浅間大塚古墳Click!に由来する地名だと思われるが、柏木地域も同様に古墳由来なのだろう。この時期、山手線の大塚駅近くの大塚古墳Click!も、いまだ破壊されずにそのまま残っていた。下落合の目白崖線に目を向けると、先の西坂をはじめ、古くからの坂道が記録されている。西坂の西には、前谷戸から鎌倉街道へと抜ける市郎兵衛坂Click!、見晴坂、振り子坂Click!、蘭塔坂Click!(二ノ坂)などがすでに描かれている。妙正寺川沿いには、東京電燈谷村線の送電線が存在せず、河原には一面に田畑が広がっていた。
 1/10,000地形図は、大正期に入ると徐々に市街地が増えはじめ、地形を把握する等高線が隠れて見えなくなってしまう。地形図というよりは、市街地図のようになってしまうので、江戸期から明治期にかけての地形を把握するには、初期の1/10,000地形図は貴重な存在だ。いまだ家々が少なかったせいで、各戸ごとに建物が採取されているのも面白い。
 今年6月29日の新聞紙上に、地表へレーザー光を照射して墳丘がわかりにくい隠れた古墳Click!を発見する、空中考古学の記事が出ていた。レーザー光の反射で、土地の微妙な凸凹を集計してグラフィック化(可視化)する装置なのだが、この時代の落合地域に、レーザー光を当てて微細な立体地図を出力したら、あちこちに大小さまざまの円形や方形の幾何学的なフォルムが、ハッキリと表れたのではないかと想像している。江戸期からの農地化や宅地造成で地表がならされても、土地の微妙な凹凸は簡単に取り去ることはできず、長期間にわたって残存しつづけるからだ。

 
 現在の市街地にいくらレーザーを照射しても、乱反射でなにも見えないだろうし、なによりも下には人間がたくさんいるのだからちょっと危ない気もする。障害物を透過して地表をとらえられる、別の認識技術が必要なのだが、現在の技術水準ではなんとかなりそうなところまできている。

◆写真上:落合地域で三角点36.5mが設置された、タヌキの森ピークの土蔵(右奥)。
◆写真中上:1909年(明治42)作成の早稲田1/10,000地形図の、左端に描かれた下落合東部。目白停車場は金久保沢の谷間にあり、目白通りとは異なる清戸道の踏切りが描かれている。 ★その後、目白駅の橋上駅化は1922年(大正11)と判明Click!している。
◆写真中下:1909年(明治42)作成の新井1/10,000地形図にみる、下落合の中部域(本村)。北側には、江戸期からつづく豊島郡長崎村の椎名町が収録されているのが見える。「村」と「町」が前後に逆転している地名はめずらしく、新宿エリアでは豊多摩郡大久保村百人町などもその例だ。
◆写真下:上は、同じく新井1/10,000地形図にみる下落合西部と上落合。下左は、下落合東部のタヌキの森ピーク36.5mに建っていた蔵。下右は、下落合西部のピーク37.5mに建つ邸宅。