夏目漱石Click!が、1908年(明治41)に東京朝日新聞に発表した『三四郎』には、帝大に通うようになった三四郎が東京郊外を散策する様子が描かれている。よく訪れるのが、先輩である野々宮宗八(寺田寅彦Click!がモデルといわれる)が下宿していた甲武鉄道(現・中央線)沿いの大久保なのだが、たまに遠出をすることもあった。ある日、新井薬師まで遠足にきたので大久保へ出ようと歩いていくが、なぜか反対側の落合地域へ足を踏み入れてしまうくだりがある。
 夏目漱石は、牛込喜久井町から戸山ヶ原界隈をよく散歩Click!して歩き、大久保のツツジ園界隈(百人町)へも頻繁に出かけているようだ。だから、三四郎が新井薬師まで散歩に出かけ、帰路で道に迷って落合地域を彷徨するという話は、実は漱石自身の体験であったように思われるのだ。今回は、三四郎がどこをどう迷って目白停車場まで出てしまったのか、同作品が書かれたのとほぼ同時代の新井・早稲田1/10,000地形図を用いて推定してみたい。
 では、1924年(大正13)に出版された『合本 三四郎・それから・門』(春陽堂)から引用してみよう。
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 そのうち秋は高くなる。食欲は進む。二十三の青年が到底人生に疲れてゐる事が出来ない時節が来た。三四郎は能(よ)く出る。普通の人間に逢ふ計りである。又理科大学の穴倉へ行つて野々宮君に聞いて見たら、妹はもう病院を出たと云ふ。(中略) 今度大久保へ行つて緩(ゆっく)り話せば、名前も素性も大抵は解る事だから、焦(せ)かずに引き取つた。さうして、ふはふはして諸方歩いてゐる。田端だの、道灌山だの、染井の墓地だの、巣鴨の監獄だの、護国寺だの、----三四郎は新井の薬師迄も行つた。新井の薬師の帰りに、大久保へ出て野々宮君の家へ廻らうと思つたら、落合の火葬場の辺で途(みち)を間違へて、高田(たかた)へ出たので、目白から汽車へ乗つて帰つた。汽車の中で土産に買つた栗を一人で散々食つた。
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 ちなみに、『三四郎』は1908年(明治41)に書かれているが、その数年前の本郷を舞台にしているので、実際は日露戦争が終わって少ししてからの情景だ。もちろん、この時代には山手線の高田馬場停車場Click!も百人町停車場(現・新大久保駅)も存在しておらず、三四郎は落合地域で迷ったら、最寄りの鉄道駅は目白停車場Click!か柏木停車場Click!(現・東中野駅)へと抜けるしかなかった。

 三四郎は、おそらく甲武線(中央線)の中野駅で下りて、北へ1kmほどのところにある新井薬師(梅照院)へと出かけたのだろう。その帰途、大久保停車場近くにある野々宮の下宿へ寄ろうと、おそらく東へと歩き出した。三四郎が歩いたのは、おそらく新井薬師から南東方向へと向かう、上高田を斜めに横切る街道筋だっただろう。当時も現在も、この道は上高田地域の主要道路で、そのまま道なりに進むとやがて現在の早稲田通りへと抜けられる。

 ところが、上落合の落合火葬場Click!までたどり着いたとき、三四郎は二叉路を右へゆかず、左の道へ入ってしまった。左の道は、上落合を東西に横断する江戸期からの幹線道路で、落語「らくだ」Click!の酔った久六と半次が漬物樽をかついで通ったと思われる道だ。途中には、最勝寺Click!や光徳寺Click!があるので、三四郎はすぐに迷ったことに気づいただろう。落合火葬場から右の道へ入っていれば、上落合の南辺を通ってほどなく小滝橋へと抜けられたはずだ。小滝橋から大久保までは、戸山ヶ原の牧場Click!などを見ながら1kmとちょっとの道のりだった。

 上落合へ入りこんでしまった三四郎は、どうしただろうか? 実際に迷ったかもしれない漱石は、おそらくそれ以上迷うのを防ぐために、田畑の畦道や森林を抜ける細道ではなく、比較的「にぎやか」な街道沿いを東へ歩いただろう。街道を東へたどれば、やがて必ず線路にぶつかる・・・そう考えたにちがいない。そこいらの人に道を訊けば、いま自分がどこにいるのかすぐにわかったのだろうが、三四郎は(漱石ならなおさら)あえて道を訊ねてはいない。

 上落合を横断する道は、東へ進むほど北寄りへ針路をとるので、目白崖線の丘がみるみる近づいてきただろう。やがて、三四郎がたどった街道筋は線路ならぬ小流れへとぶつかる。小さな西ノ橋(比丘尼橋)Click!が架かった、旧・神田上水と妙正寺川が落ち合う地点だ。三四郎は目白崖線沿いの道をたどった・・・というのが、なぜわかるのかというと、漱石は「高田へ出た」と書いているからだ。北豊島郡高田(たかた)村は、旧・神田上水の北側に拡がる地域であり、現在の高田馬場駅(たかだのばば)周辺ではない。現在の高田馬場地名がふられた地域は、すべて豊多摩郡戸塚(とつか)村(上戸塚)だ。旧・神田上水(1960年代から神田川)の北側へ出たら高田、南側へ出たら戸塚の時代だ。だから、戸塚ではなく郡ちがいの高田へ出たということは、いまの学習院下あたりのエリアへ抜けたことを意味している。そして、落合地域から高田村へ抜ける道は、清戸道Click!(現・目白通りとその脇筋)を除けば、雑司ヶ谷道(東京府による現・新井薬師道)しか存在していない。

 つまり、三四郎は西ノ橋をわたったあと、やはり街道(雑司ヶ谷道Click!)を東へとたどり、下落合氷川明神社Click!の北側を抜けて足を速めただろう。そこからは、もう山手線の走る線路土手が田畑の向こう側に見えはじめていたにちがいない。そして、山手線の佐伯ガードClick!をくぐったところが、戸塚村ではなく高田村だったのだ。左には、学習院の森のバッケが拡がり、江戸期の幕府・高田馬場(たかたのばば)から早稲田方面が見えただろう。実際に漱石は、そこから牛込喜久井町へもどったのかもしれない。しかし、本郷に下宿している三四郎は、山手線に乗って帰らなければならない。

 三四郎は、再びガードを西へくぐって下落合側へともどり、線路に沿ったなだらかな坂道を北上しただろう。この時代、椿坂Click!を上がっても目白停車場Click!は存在しない。目白停車場の改札は、いまだ金久保沢Click!の谷間西側にあるので、椿坂を上ると清戸道踏み切りか目白橋をわたって金久保沢の谷間へもう一度入り、南へ少し歩かなければならなかったからだ。三四郎は左手が森、右手には線路が通るダダラ坂を上り、やがて目白停車場の渡線橋が見えたときにはホッとしただろう。
 
 このころの甲武線・大久保駅の周辺、すなわち野々宮宗八の下宿があったあたりを研究するのも非常に面白い。大久保駅の踏み切り、あるいは高架ガードの由来が非常に複雑だからだ。また、周囲の百人町界隈は古墳Click!だらけなので、「百八塚」Click!のテーマにも欠かせないエリアなのだが、落合地域から離れてしまうので、それはまた、機会があったときの、別の物語・・・。

◆写真上:甲武線・中野駅から、北へ1,000mほどのところにある梅照院(新井薬師)。
◆写真中:秋に撮影されたのか参道の茶店には「栗ようかん」や「栗めし」の幟が見える、三四郎が出かけたのと同じ季節に撮影された明治末の梅照院(新井薬師)。
◆地図:1909年(明治42)作成の新井・早稲田1/10,000地形図にみる、三四郎の迷い道ルート。
◆写真下:左は、上高田を横切る街道沿いのめずらしい商店建築。右は、「吉薗資料」で吉薗周蔵の自宅があったとされる区画で北側が上高田の街道に接している。道の左手が自宅、正面が街道、右手あたりにケシ畑があったとされるが伝承が存在していない。ただし、佐伯祐三Click!が「洗濯物のある風景」Click!を二度、季節を変えて上高田側から描いているのは事実であり、「堂(絵馬堂)」が戦災で焼失した桜ヶ池不動堂Click!だとすれば、「吉薗宅」までは300mちょっとということになる。