最近、池袋駅の東口近くにも水天宮があることを知った。もっとも、1928年(昭和3)に地元の有志たちが、日本橋蠣殻町の有馬水天宮から勧請したかなり新しい社(やしろ)なのだが、雑司ヶ谷鬼子母神Click!とはわずか1,000mと少ししか離れておらず、このあたり一帯は出産や子育てには、ことのほか縁起のよい土地柄となっているようだ。
 久し振りに、日本橋の蠣殻町から人形町Click!まで散歩したくなったので出かけることにした。といっても、人形町はしょっちゅう散歩している地元の街なのだが、蠣殻町はほとんど歩かない。もともと、大名屋敷ばかりが並んでいた区画なので、あまり芝居にも登場してこない馴染み薄のエリアなのだが、久留米藩・有馬家中屋敷跡に引っ越してきた水天宮が街のカナメとなっている。おそらく、この水天宮は東京ばかりでなく、関東全域から参詣者が訪れるのだろう。
 久留米の有馬家は、もともと江戸期から子育てや教育に熱心だったらしく、久留米から芝赤羽根(現・三田1丁目)の下屋敷へ水天宮を分祀して一般公開をしたり、明治維新の直後には日本橋の中屋敷跡へ水天宮を遷座し、隣接する区画に寄付で有馬小学校を建設したりと、子どもに関する施策ではひときわ抜きんでた存在だった。1873年(明治6)に開校した有馬小学校は、小日向にあった黒田小学校とともに都内では2校しかない、個人名を冠した公立の小学校だ。
 

 蠣殻町は、芝居でもあまり登場せず馴染み薄・・・と書いたけれど、明治以降のザンギリ芝居には水天宮が登場している。明治に入って河竹黙阿弥Click!が書いた、「水天宮利生深川(すいてんぐう・めぐみのふかがわ)」だ。通称「筆屋幸兵衛」と呼ばれる芝居は、今日上演される機会がほとんどない。ザンギリ芝居として書かれたせいでもあるが、現代で「士族の没落」といってもピンとこないからだ。筋立ては明治の初年、「秩禄処分」で没落した元・武家の船津幸兵衛が出産で妻を亡くし、筆を売りながら目の見えない長女と赤ん坊を抱えて子育てをするのだが、生活は楽になるどころか苦しくなる一方だった。周囲の人たちから恵んでもらった、おカネや衣類までを高利貸しに持っていかれ・・・と悲惨きわまりない展開となっている。
 幸兵衛はついに発狂し、水天宮のイカリ(碇)の額を抱えながら踊り狂って、そのまま赤ん坊を抱え大川(隅田川)Click!へ身投げClick!をする。長屋に住む近所の人たちや、騒ぎを聞いて駈けつけた巡査になんとか助け上げられた幸兵衛は、手に抱えてきた水天宮のイカリ額のせいで沈まなかったばかりか、大川の冷たい水でようやく正気にもどった。赤ん坊も水天宮の額のおかげなのか、少しも水を飲むことなく無事だった。しばらくすると、目の見えない長女の親孝行が世間で話題となって、新聞でも取り上げられ多額の義捐金が幸兵衛のもとに集まり、娘の目を治す薬もどうやら見つかって、これもみんな日ごろから信心している水天宮のおかげ・・・というようなストーリーだ。
 
 
 さて、水天宮はそれほどご利益のある神様なのかというと、久留米藩有馬家にとってみればご利益のかたまりのような存在だったろう。江戸時代、諸国の大名家は幕府からさまざまな水利土木や干拓・開拓、普請事業などの役務を押しつけられ、その費用の捻出で藩財政はどこでも火の車だった。ところが、久留米藩には芝赤羽根の下屋敷内に水天宮があり、それを江戸市民へ一般公開していたため、年間の賽銭や喜捨による収入は2千両を下らなかったといわれている。つまり、なにもしなくても5年間で1万両も稼いでくれる“財源”があったわけで、大江戸(おえど)Click!へ水天宮を勧請するという同藩のマーケティングは図に当たり、地元・久留米の水天宮を上まわる収入源となっていた。有馬家としては、水天宮様々だったろう。
 水天宮の神は、もともと原日本の水神だと思われるアメ(ノ)ミナカヌシ(天御中主)なのだが、後世にいろいろな「神」が習合・追加されて今日にいたっている。ご利益は、筆屋幸兵衛が抱えながら踊り狂ったイカリ額でもわかるように、水難除けや大漁祈願、転じて安産や子育ての神なのだが、現在でも有馬家が氏子代表をつとめ、周囲の氏子は『神社名鑑』によれば5万人といわれている。
 
 以前に空襲の記事Click!でも書いたけれど、うちの家族は1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!の際、大川へは逃げずに反対側の本町あるいは人形町方面へと逃げている。人形町や蠣殻町は、東京大空襲による延焼をかろうじてまぬがれており、家族はなんとか風速50mの大火流Click!から逃げのびることができた。水天宮のおかげなのか、それとも神田明神Click!のおかげなのかは知らない。でも、人形町も蠣殻町も8月15日の敗戦まで、街は燃えずになんとか焼け残っている。

◆写真上:明治初年から日本橋蠣殻町にある、有馬家ゆかりの水天宮。
◆写真中上:上左は、同水天宮。上右は、有馬家の寄付により1873年(明治6)に開校した区立有馬小学校。下は、戦前の写真とみられる6代目・尾上菊五郎が筆屋幸兵衛を演じる「水天宮利生深川」で、背後の壁上には水天宮のイカリ額が架かっている。
◆写真中下:上は、尾張屋清七切絵図「東都麻布」(1861年)にみる赤羽根の有馬家下屋敷(左)と、同「日本橋北内神田両国浜町」(1850年)にみる蠣殻町の同家中屋敷(右)。下左は、安藤広重『名所江戸百景』(第53景/部分)の有馬家下屋敷水天宮。下右は、1929年(昭和4)の水天宮。
◆写真下:左は、米軍によって撮影された1947年(昭和22)の空中写真に写る戦災にも焼け残った水天宮。右は、1950年(昭和25)ごろに撮影された水天宮の拝殿前。