下落合540番地にアトリエをかまえていた、大久保作次郎Click!邸の様子を細かく描写した資料があるのでご紹介したい。池袋4丁目391番地に設立された造形同人会が、戦後の1956年(昭和31)に『造形-特集・大久保作次郎-』12月号を発行した際に収録した、美術評論家・荒城季夫の文章だ。ちなみに、同誌には先に『早春(目白駅)』Click!でご紹介した、小出楢重Click!が戦前の『美術評論』に発表した文章「大久保君の印象」も再録されている。
 では、荒城季夫「大久保さんを素描する―人間と芸術の絶妙な調和―」から、引用してみよう。
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 先日、私はこの特集をさせて頂くために、久し振りで目白の大久保さんをお訪ねした。目白界隈はすつかり復興して、戦災をまぬがれた氏のお宅は、程よく古色が出て、御主人の趣味と個性を示す、あの中国風な門と玄関が私をやさしく迎え入れてくれた。当の大久保さん御夫妻に快く招じ入れられて、とつつきの大きな応接間へ行くと、北窓のステンド・グラス、家具調度品、棚に幾段にも列んだ静物用の器具、石膏の像、壁に高く掲げられた見覚えの記念作や模写など、またおそらくは本物の舶来物であろうと思われるストーヴにいたるまで、昔なつかしいものばかりである。どれもみな、近頃の、安手のピカピカ物でなく、しぜんに時代の深い味わいを加えてきた、謂わば大久保さん自身の心がにじみ出たイキモノで、在り来りの無機物ではない。/大久保さんの絵によく出てくるサンルームや、亡くなった牧野虎雄Click!さんが描きにきたという明るい庭も旧のままてせあり、屋内屋外ともに、別にこれという手入れはしてないけれど、何も彼もが奥ゆかしくアト・ホームな感じである。
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 大久保作次郎は、1919年(大正8)に下落合へアトリエを建てて以来、1973年(昭和48)に死去するまで同所を離れていない。1945年(昭和20)5月25日の第二次山手空襲Click!でも、かろうじて邸は延焼をまぬがれ、戦後もアトリエを含めて変わらない姿で建っていた。
 ただし、大久保は自宅や庭の増改築が好きだったようで、1919年(大正8)の初期建築の姿と比べれば、邸+アトリエや庭の姿は大きく変貌していたと思われる。おそらく、戦前から大久保邸を訪問していたのだろう、荒城季夫は見慣れた大久保邸を訪れている。文中にも書かれているが、目白通りの北側に飛び出た下落合から、旧・目白町4丁目(現・目白3丁目)の南側は戦災をまぬがれ、徳川黎明会Click!や徳川義親邸Click!のあたりは戦前の風情を色濃く残していただろう。
 
 大久保作次郎は、戦後いち早く1946年(昭和21)に結成された目白文化協会に参加している。同協会の会長は、ごく近くに住んでいた徳川義親がつとめており、それが縁で両者は家を行き来するほど親しくなったようだ。同協会に参加していた衣笠静夫Click!(おそらく同協会のプロデューサー的な役割り)をはじめ、吉田博Click!やその子息たちClick!、海洲正太郎Click!、柳家小さんClick!といった人々に混じり、大久保作次郎も焼け残ったアトリエをベースに目白文化協会向けの作品を仕上げていたのだろうか? それとも、“大久保亭作次郎”を名乗り、油絵に関する「寄席」を開いていたのかもしれないが、詳細は判然としない。
 先の『造形』12月号には、その目白文化協会の会長である徳川義親も、「大久保さんと私」というタイトルで執筆しており、同協会についても触れているので全文を引用してみよう。ただし、文中に目白文化協会が「昭和三十一年」に結成されたとあるのは、もちろん「昭和二十一年」の誤りだ。「昭和三十一年」だと、この『造形』12月号が発行されているリアルタイムの出来事となってしまう。おそらく、『造形』の編集部の誤記、あるいは印刷時の“誤植”ではないかと思われる。
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 私は御近所に住んでいる関係で、しぜんに大久保さんと親しくお付合するようになつた。お互になかなか忙しいので、そう度々お会いしているわけではないけれど、時折はこちらからも訪問したり、先方からも見えることがある。/お訪ねして、見るからに趣味の高い人と思われる、ステンド・グラスなどがはまつたあのしやれた応接間や明るいサンルームで、いろいろと四季の花の咲く庭を眺めながら、歓談するよろこびもまたひとしおである。/たしか昭和三十一年(ママ:昭和二十一年の誤り)の終戦直後のことであつたと思うが、荒廃の中で、目白在住の人々によつて「目白文化協会」という会が初めて結成された。そのとき私がその会長に推されて、それ以来、会員に加わられた大久保さんと御懇意になつた。この会は今もなお続いているから、文化をとおしての愉しい交わりである。/誰も同じ印象をうけることであろうが、大久保さんのお人柄は明るく円満で、その絵そのままの美しい人格の反映である。育ちの良い上品さと庶民性がうまく調和して、今日の大久保さんになつているのである。今度、「造形」という綺麗な雑誌で大久保さんの特集ができるというのは、私にとつても、まことにうれしいことである。楽しみに期待している次第である。
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 ここに、戦後すぐのころから目白文化協会に参加していた、堀尾慶治様Click!からいただいた1枚の記念写真がある。戦後間もないころ、旧・下落合1丁目483番地(現・下落合3丁目)にあった喫茶室「桔梗屋」Click!で開かれた、目白文化協会の“寄席”イベントで撮影された記念写真だ。中央に会長の徳川義親Click!と並んで、旧・椎名町1丁目1886番地(現・目白4丁目)に住んでいた当時の第1次吉田内閣の文部大臣・田中耕太郎夫妻が写っているので、おそらくこの日の「桔梗屋」における“寄席”のテーマは法学ないしは教育の分野ではなかったかと思われる。背後には、「田中亭耕太郎」の講師名が書かれた立て看板が見えている。
 記念写真の顔ぶれを見ると、近所に住む実にさまざまな分野の人々が目白文化協会に集っていたことがうかがわれる。いかにも肩肘はった記念写真という感覚はせず、見るからに楽しそうな“普段着”の表情をしている。この集合写真の中で、徳川義親のすぐうしろに立っている、背が高めな人物(当時としては大柄で170cmを少し超えていた)が大久保作次郎だ。
 そのほか、下落合1丁目473番地(現・下落合3丁目)に住んでいた東大法医学教室の教授・古畑種基が写っているのもめずらしい。いわゆる血液に関する「古畑鑑定」で有名な法医学者だが、この記念写真のあとほどなく発生した「下山事件」で、下山国鉄総裁は自殺ではなく「死後轢かれたものであることは明らかです。法医学上から申せば他殺であります」と死後轢断の判定をして注目を集め、警視庁では下山国鉄総裁殺人事件の特別捜査本部を設置することになる。
 

 喫茶室「桔梗屋」のエントランス部がうかがえる記念写真は非常に貴重で、のちに飲み屋「ひさご」を経営することになる女将の姿も見えている。「桔梗屋」に置かれた目白文化協会のノート「桔梗抄(らくがき帳)」は、のちに「ひさご」へと受け継がれるのだが、閉店する同時に行方不明となった。

◆写真上:1931年(昭和6)にアトリエへボートを搬入し、『舟遊図』を制作中の大久保作次郎。
◆写真中上:左は、1947年(昭和22)に撮影された下落合540番地の大久保邸で、大正期に比べ家屋がかなり増えている。右は、戦後に撮影された裏磐梯を歩く大久保作次郎。
◆写真中下:上は、1947年(昭和22)前後の撮影とみられる目白文化協会の「寄席」記念写真。下は、1920年(大正9)1月12日付け東京朝日新聞の徳川義親による「徳川美術館」設立の記事。
◆写真下:上左は、1953年(昭和28)制作の大久保作次郎『洞爺湖』。上右は、1949年(昭和24)の下山事件で記者へ「死後轢断」と断定する古畑種基の会見映像。だが、その発言は徐々に揺れをみせる。下は、少し写真がハレーション気味で残念だが吉田博邸Click!で開かれた目白文化協会の青年部「あらくさ会」Click!のミーティング記念撮影。(堀尾慶治様Click!提供)