さて、八島邸の向こう側に見えている、大きな赤い屋根が家が納(おさめ)邸だ。「八島さんの前通り」から少し入ったところに建設された納邸は、このあたりに建設された家々の中では飛びぬけて巨大だ。おそらく、1926年(大正15)の秋ぐらいから建設がスタートし、この『下落合風景』Click!が描かれた1927年(昭和2)の初夏には竣工したか、あるいは完成間近だったと思われる。
 ちなみに、納邸の建設過程を考察すると、佐伯が描きつづけた「八島さんの前通り」シリーズについて、作品へ制作の順番をつけること、ないしは時期の特定ができそうに思えるのだが、この記事とは少しテーマがズレてしまうので、それはまた、次の物語・・・。
 大きな赤い屋根の納さんちの、さらに左側(東側)に見えている赤い屋根が、佐伯から「テニス」Click!をプレゼントされることになる、落合小学校Click!の教師・青柳辰代Click!が夫の青柳正作Click!とともに暮らしていた青柳邸(敷地2分割前の旧邸)か、あるいは建て替え前の小泉邸かもしれない。その青柳邸ないし小泉邸をあらかた隠してしまっている、手前(北側)の2階家が富田邸、そのすぐ左側(東側)に建っているのが佐久間邸だと思われる。富田邸と佐久間邸との間には、北から南へ行き止まりの路地が入りこんでおり、突き当りには富田邸に隠れている小泉邸が建っているはずだ。小泉邸は佐伯邸の西隣りにあたる住宅で、この路地は現在でもそのままだ。
 佐久間邸と富田邸の手前(北側)には、焦げ茶色に塗られた下見板張りの外壁と思われる、バンガロー風の洋風住宅が建っているが、前年に作成された1926年(大正15)の「下落合事情明細図」では空地表現(建設中だったのかもしれない)となっているので、南北の行き止まり路地に沿って西側に建設されたばかりの新築住宅だと思われる。「下落合事情明細図」が、1926年(大正15)現在の下落合の街の様子をそのまま正確に映しているのではなく、少し前の情報で作成されている可能性が高いことは、すでに何度かここでも指摘Click!してきている。たとえば、同明細図には佐伯邸が描かれておらず、敷地全体が地主の山上家から借地をした酒井億尋邸となっているが、実際には1921年(大正10)の秋ぐらいから、佐伯夫妻はここに住んでいたClick!はずだ。
 佐久間邸から左並び(東並び)に見えている、わたしが寺斉橋の橋桁と橋梁だとばかり思いこんだ(爆!)部分は、2階家のベランダと軒であったのが実物の作品画面からわかった。この家は、佐久間邸や富田邸が面した路地から、少し東へ離れた位置に建っている宇田川邸だと思われる。宇田川邸は、他の敷地に比べやや小さめとなっており、山上家とともにあたり一帯の地主である宇田川家と、道を隔てて隣り合っていることから同家の分家ではないだろうか。ちなみに、佐伯邸の地主は山上家Click!、八島邸の地主は宇田川家Click!だ。

 
 宇田川邸と佐久間邸との間には、大きな西洋館の切妻屋根が見えている。ハーフティンバー様式のおシャレな洋館は、青柳邸の東隣りの広い敷地に建っている中島邸(のち早崎邸)の北側面の姿だ。この大きな西洋館は、住人が中島家から早崎家に入れ替わったあとも、そのままつづけて使用されており、1936年(昭和11)の空中写真でも北側に大きな切妻屋根を備えた同邸を確認することができる。そして、この中島邸こそが、佐伯邸の南東隣りにあった養鶏場Click!跡にできたばかりの、赤い屋根に白壁のシャレた西洋館ということになる。
 その中島邸の手前右、佐久間邸の左側に、明らかに中島邸のものとも佐久間邸のものとも思われない、異質な茶色い屋根状のものが描かれている。これが、中村彝Click!の友人である酒井億尋Click!と、飼いネコへ石をぶっつけられたのをきっかけに曾宮一念Click!と親しく文通をつづけた酒井朝子Click!とが暮らしていた、佐伯邸の北隣りである酒井邸である可能性が高い。
 そして、本作の非常に重要なポイントの描写に視線の焦点を絞ってみよう。北から南へと通う行き止まりの路地の左右に建つ、佐久間邸(東側)と富田邸(西側)との間、ほんのわずかな隙間ほどのスペースであるにもかかわらず、他の絵の具の塗り方に比べ相対的に細かく、いくらかていねいに描かれた建物が見えている。手前の斜めに描かれた屋根はグリーンに塗られ、外壁は白に近い色合いをしている。その傾斜がゆるい屋根をもつ建物の背後へ、かぶさるように描かれた奥の建物の屋根は灰色かモスグリーンのように塗られている。もちろん、この位置に見えているのは、『下落合風景』を描いた作者のアトリエと母屋にほかならない。(冒頭写真)
 手前に見えている、右下がりになった斜めの緑屋根は、佐伯が自分で普請をして「大震災にもビクともせえへんかった」アトリエの増築洋間Click!部分であり、奥に見えている灰緑色の屋根は佐伯邸の母屋だ。大きな採光窓を北側にうがち、三角屋根の特徴のある佐伯アトリエ本体は、佐久間邸の背後に隠れている。見方によっては、習作とも思えるバリエーション作品Click!とは、まったく異なる細かな筆づかいでていねいに仕上げ、画面右下へサインまで添えた佐伯の意図は、1930年協会の第2回展へ出品するための大切な作品制作であるのももちろんだが、あえて自宅を入れて描いた点に、どうしてももうひとつ別の大きな“思い入れ”を感じ取ってしまう。

 
 すなわち、1927年(昭和2)の6月上旬をもって、「あのな~、ぎょうさん描いたった下落合の風景もな~、このへんでしまいやでぇ」・・・というような、制作に対するひと区切りの意識だ。事実、この『下落合風景』は6月17日から開催された第2回展へすぐに出品され、展覧会が終わるのとほぼ同時に、佐伯は家族を連れて大磯Click!へ避暑に出かけている。展覧会で本作が売れたかどうかまでは不明だが、売れなかったとしても「作品頒布会」を通じて関西方面へ販売されたのだろう。そして、大磯風景を描くいとまもなく、大磯から大阪へ、また大阪から東京へと忙しく動きまわり、ゆっくり腰をすえて作品に取り組む時間が、6月の展覧会以降にはなかったように思われる。
 うがった見方をするなら、佐伯は『下落合風景』の連作をはじめた当初から、「八島さん」(とその前通り)のモチーフにこだわって取り組み、その後、旧・下落合全域(現・中落合/中井2丁目含む)へ足をのばして各地を描きつづけてきた。なぜか、下落合の東部へはほとんど足を踏み入れず、宅地造成や住宅建設、道路整備、下水道工事などが急ピッチで進んでいた、下落合の中部から西部ばかりを描いているのは、佐伯自身が東京の郊外風景に対するなんらかの表現テーマを抱えていたことをうかがわせる。しかし、1927年(昭和2)の夏にいたり、もっとも馴染みのある「八島さん」とその周辺域へ、再び画因を絞って描いていたことになる。
 つまり、佐伯は最初のころに手がけた風景モチーフへ回帰しているのであり、しかも既存の作品群から判断する限り、従来は画面に入れて描くことがなかった(と思われる)、自邸のアトリエや母屋をも入れて制作している。これは、それまでの仕事を総括して、次のステップを意識したうえで、従来のテーマを止揚しているようにも受けとれるのだ。佐伯は『下落合風景』の連作を、1926年(大正15)9月から1927年(昭和2)6月まで、ほぼ10ヶ月間つづけてきたことになる。目の前には、1930年協会展と大磯への避暑計画(アトリエ建設の大工Click!つながりだろうか?)がひかえ、さらに2回めの渡仏に必要な資金繰りのテーマが見えはじめていただろう。
 だからこそ、延々と描いてきた連作『下落合風景』に、ケリをつける作品を描きたくなったのではないか? ひょっとすると、6月の時点では米子夫人Click!にはナイショで、すでに第2次渡仏のぼんやりとしたスケジュールが起ち上がっており、曾宮一念アトリエClick!近くのボロボロの「オバケ屋敷」で暮らしていた鈴木誠Click!へ、自宅とアトリエを貸す計画も浮かんでいたのかもしれない。

 
 7月下旬に大磯からもどった佐伯一家は、大阪三越で入手したシベリア鉄道Click!の切符を手にあわただしく旅支度を整えると、7月29日に二度めのフランスへ向けて東京駅を出発する。そして、自邸を入れて描いた『下落合風景』を最後に、佐伯祐三は二度と下落合へもどることはなかった。

◆写真上:佐伯祐三『下落合風景』(1927年)の拡大で、富田邸と佐久間邸の間にのぞく佐伯邸。
◆写真中上:上は、1926~27年(大正15~昭和2)における画面に描かれた家々の特定。下は、下落合663~668あたりに建てられている家々のクローズアップ。
◆写真中下:上は、佐久間邸と宇田川邸の間からのぞくおシャレな中島邸(のち早崎邸)。下左は、手前の2階家3軒が並んだ部分の拡大。下右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイントと佐伯アトリエ周辺。新築の家が増え、既存の家々もすでに増改築がなされている。
◆写真下:上は、佐伯邸の母屋の屋根上から北を向いてアトリエと増築洋間部分を眺めたところ。1984年8月の撮影で、増築洋間の屋根の傷みが激しかったせいか、あるいは地震に備えた重量軽減の課題からか、当時は茶色のトタンで被われていた。下は、増築洋間の外観(左)と内部(右)。
★付記
この作品が再び個人所蔵になってしまうと、40~50年間は観られなくなってしまう可能性があり残念だ。そこで、美術館を計画中の豊島区で購入していただければ、いつでもどなたでも佐伯の『下落合風景』を目の当たりにすることができる。落合地域は新宿区だが、すでに「テニス」を所蔵しているので購入を前向きに検討していただけるかどうか? 100万円/号といわれたバブリーなころとは異なり、非常に出来がよく、また佐伯最後の『下落合風景』作品と思われる本作は5,800万円と、巴里作品などに比べたら価格的にもかなりこなれているように思う。初の文化財共有ケースとして、豊島区と新宿区が折半で購入し、双方の地域で交互に展示してもいいように思うのだが・・・。