「小柄な人かと思っていたのですが、そうじゃないんですね」と、お会いする人たちから言われつづけている。このブログタイトルの「Chinchiko Papalog」という名称から、どうやらわたしは背が低いと想像されているらしい。いちいち説明するのが面倒になってきたので、ブログを開設してから丸7年が経過したいま、もう一度改めてネームの由来を書きとめておきたい。
 ついでに、ブログがこの11月24日で8年目Click!に突入したので、誤解を生むようなブログタイトルを改めてみた。ただしハンドルネームは、わたしのことを「Papaさん」と呼ぶ方が圧倒的に多いので、そのまま使用することにした。この7年間、ブログのリソースをずいぶん消費してきているので、ストレージ容量が限界に達した場合にはとりあえず更新を停止したい。
 「Chinchiko Papa」という名前は、もともと近くにある行きつけの「カフェ杏奴」Click!のノートに書いていたハンドルネームだった。うちの下のオスガキが小学生のとき、杏奴ノートに「Chinchikorin(チンチコリン)」というネームでなにかを書きはじめていたので、わたしもつられてイタズラ書きをするようになった。その際、署名に困ってつい「Chinchikorin」の「Papa」だから「Chinchiko Papa」としただけの、きわめて他愛ない理由からだった。当時、身長が1mとちょっとしかなかったオスガキは、いまやわたしの背を抜いて180cmに迫ろうとしている。
 「とても声が、お若いんですね」と、電話でお話しするお相手、あるいは取材者の方からいたわるように言われつづけている。^^; どうやら、わたしのことを慶応年間あるいは明治生まれのじいちゃんで、ヘタすると彰義隊Click!か靖共隊Click!に参加でもしてるように思われているらしい。昔の江戸東京について書きつづけているのは、わたしが150歳だからではなく、祖父や親からこの地で起きた物語や伝承を大量に聞かされてるからであり、おそらく祖父や親たちもまた、その祖父や親たちから抱えきれないほどの物語や伝承を聞いて育ってるせいだ。
 そしてもうひとつ、サイト名の変更は「チッ、チン、チン・・・コ・・・あの~~、とっても言いにくい名前ですのよ。変えていただけませんこと?」と、この7年間いわれつづけてきたせいでもあった。w

 

 わたしは、経済白書が「もはや戦後ではない」と記した、50年代後半に生まれた世代だ。60年安保などまったく知らず(岸上大作Click!は知ってるけれど)、70年安保もよくわからないうちに過ぎ去っていった。(福島泰樹Click!は知っているけれど) だから、「声がお若いですね」じゃなくて、そのような世代を過ごした方々に比べたら、実際に「若い」のだ。
 わたしの10代の終わりは、マイルス・デイビスClick!が日本公演の『アガルタ』と『パンゲア』を発表したあと、長い“沈黙”をつづけていた時期と重なり、学生時代の終わりごろになってようやく“復活”して、取るものもとりあえず新宿の寒い都営6号広場(現・都庁の近く)へと駈けつけ、三里塚では市民や学生や労組員たちに、いくつかの派手なセクトClick!が入り混じって最後の闘争が繰り広げられ(いまさら、成田が遠いとはどういうことだ?)、米国のスリーマイル島では「ありえない」メルトダウンの原発事故が起き(いまでも放射線障害に苦しんでいる人々がいる)、めまぐるしい日本経済はバブルへ向けてまっしぐら・・・というような時代だった。
 街中を歩けば、あちこちの店から耳ざわりのよいフュージョン・ミュージックが流れ、メジャーになりすぎて飽きられた反動からか「ハードバップ・リバイバル」などという、過去のサウンドの焼き直しのようなJAZZが聞こえはじめていた。自分で書いときながら、つまらない政治史+歴史学のゼミ論(いちおう卒論)を提出し終えると、当時、アパートを借りていた南長崎から旧・下落合全域をフラフラと散歩しながら、日々の生活費を稼ぐアルバイトに忙しい、80年代のはじめをすごしていた。


 アパートには、ステレオ(死語だ)はあったけれどしばらくTVがなく、音楽を聴きながら次から次へと本ばかり読んでいた憶えがある。すでに廃業して久しい、近くの銭湯・仲の湯(旧・久の湯Click!)か、そこが休業していれば目白文化村Click!外れの銭湯・人生浴場(旧・萩の湯Click!)へ出かけると、連れが出てくるのを外でカタカタ震えながら待っている、仲里依紗(なか・りいさ)じゃないけれど「あっ、リアル神田川!」の光景がまだかろうじて見られていた時代だ。
 学校の帰り道や休日などには、落合・長崎両地域を散歩するのが好きだった。一眼レフカメラが2台あったにもかかわらず、持って歩かなかったウカツさをいまだに悔やんでいる。当サイトでよく引用する、1947年(昭和22)撮影の空中写真だが、画面に見える焼け残ったエリアの家々が、ほぼそのままの状態で残っている街並みだった。それから30年、相変わらず同じ地域や道筋をウロウロ散歩していると、ときどき不思議な感覚にとらわれることがある。
 新しいブログの名称は、昔と変わらず「落合」町の「道」をブラブラ散歩して、ときに「道草」ばかりしている「人間」という意味から、「落合道人」と付けてみた。「Ochiai-Dojin」は「落合土人」でもいいだろう。「土人」とは、江戸期の用語で「地元の人間」という意味だ。先日、旧「日本橋区」のエリアをテーマとしたWebサイト起ち上げのご相談を受けたが、もし万が一、故郷の「日本橋区」にもどることがあれば、次は「日本橋道人」とでもしてみようか・・・。先年、上のオスガキが本籍地を日本橋から下落合へ移してしまった。わたしとは異なり、彼にしてみれば(城)下町Click!はまったく馴染みのない、未知の地域だからだろう。わたしは死ぬまで、「日本橋」を離れないつもりでいる。
 

 
 先日、友人と「タイムリープできるなら、いつのどこがいい?」という話になったとき、わたしは迷わず「1926年(大正15)9月18日(土曜日)、曇りの下落合661番地!」と答えた。『下落合風景』Click!を描きはじめた、佐伯祐三Click!のストーカーができるからだ。85年前の下落合に降り立っても、きっと「事情明細図」Click!の道筋がアタマに焼き付いてるので迷うことはないだろう。当時の家々の風情や街角も、おおよそアタマの中に刷りこまれている。
 「きょうも、どっかへお出かけかな?」
 「あのな~、わしのあとついてくんの、あれ~、なんとかならへんかいな」
 「そんなこと言わずにさ、下落合のあっちこっち散歩しよ」
 「あのな~、わしをな、下落合の東へ東へ連れてくのんもな、ほんま、やめてんか~」
 「ねえねえ、八島さんの奥さんに絵をあげたでしょ?」
 「・・・八島はんが、どないかしたんかいな?」
 「オンちゃん、いまいないからさ、ちょっとだけ教えてってば。どういう関係?」
 「・・・知らんがな」
 「そうそう、救命院には行かないの?」
 「あ、あのな~・・・」
 「1973年(昭和48)9月の下落合御留山!」でもいいな・・・とも思う。翌1974年(昭和49)の下落合は、わたしも実際に歩いて目にしている。いまからは想像もできないほど、緑だらけの落ち着いた街並みで、それをもう一度この目で眺めてみたいという欲求もあるのだが、そこで行われていたドラマのロケClick!を見てみたい・・・という想いも強いのだ。その様子を、携帯から写真とともにブログへアップロードしたいのだけれど、電波がとどかない圏外なのだ。(爆!)

◆写真上・中上・下:旧・下落合の風景で、右下に黄色の☆印がつくのはすでに消滅した風景。
◆写真中下:上は、1960年(昭和35)6月のニュース映画より、学生が街頭へ出てひとりもいなくなってしまった東京藝術大学の石膏室(デッサン室)。下は、ニューヨークの街角で演奏するマイルス・デイビスとデビッド・サンボーン・・・のわけがなく、映画『Scrooged』(1988年)のワンシーン。