少し前、下落合630番地に住んでいた1930年協会の里見勝蔵Click!を訪ねて、長谷川利行Click!が頻繁に下落合へやって来ていた記事Click!を書いた。その主な目的は、日暮里にある寺の物置小屋から下落合へと転居し、1930年協会Click!の有力会員のひとりになりたいという思いが強かったと思われるのだが、ほかにも里見家で酒食のご馳走にあずかる(飢えをしのぐ)・・・という切実な理由も、利行の友人・熊谷登久平たちの証言によればあったようだ。
 さらに、もうひとつ、利行を落合地域へと惹きつける大きな理由があった。利行がひと目ぼれしたらしい藤川栄子Click!が下落合のすぐ隣り、上戸塚に大正期から住んでおり、1930年協会のメンバーたちと盛んに交流Click!していたからだ。利行と藤川栄子が知り合ったのは、1928(昭和3)に利行が1930年協会第3回展で奨励賞を受賞したときということになっているが、わたしはもっと以前から、少なくとも利行が1930年協会のメンバーたちと接点をもった、1927(昭和2)の第2回展ごろからではないかと想像している。利行は里見勝蔵邸Click!ばかりでなく、おそらく下落合661番地の佐伯祐三Click!アトリエにも、また戸塚町上戸塚866番地(現・高田馬場4丁目)の藤川勇造・栄子夫妻の住むアトリエにも、顔を見せていたのではないか。佐伯祐三も、藤川アトリエを訪れては蓄音機でレコードを聴いていた様子が、藤川栄子の随筆に見えている。
 
戸塚町866番地に住んでいた彫刻家・藤川勇造について、1931(昭和6)発行の『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)から引用してみよう。ちなみに、夫ばかりでなく妻や家族が紹介されることが多い『戸塚町誌』の中にあって、残念ながら洋画家・藤川栄子については触れられていない。
  

 
彫塑家二科審査員 藤川 勇造 / 香川県人藤川米透氏の長男にして、明治十六年十月十日を以て生る、同四十年東京美術学校彫刻科を卒業して、同年九月仏国に留学し、在仏七年帰朝後二科会員に推さるゝ彫刻界の一権威である。
  

 
戸塚町866番地の藤川邸で撮影された、アトリエ内部の写真が残っている。左側の粘土像の前に立つのが藤川勇造だが、右奥に同じく香川生まれの藤川栄子が写っている。この時期、藤川栄子は安井曾太郎Click!へ師事していたが、新しい表現をパリから持ち帰った1930年協会のメンバーたちとも積極的に交流していた。のちに壺井栄Click!窪川(佐多)稲子Click!村山籌子Click!たちとともに、落合地域をノシノシ歩くイメージとはかなり異なり、利行がひと目ぼれしたのがわかるような、可憐で美しい姿をしている。藤川栄子の旧姓は「坪井」であり、壺井栄と坪井栄()で名前がいっしょだったため、文学と絵画で分野は異なるものの、ふたりはよけいに親しくしていたようだ。
★その後、本名が「岩井栄」の壺井栄は、1938年(昭和13)発行の「文藝」9月号に掲載された『大根の葉』で作者名を「坪井栄」と誤植され、藤川栄子の本名「坪井栄」と混同された可能性のあることが判明Click!している。

 
 
 長谷川利行は、同郷人(京都)の先輩である里見勝蔵を訪問しに日暮里から下落合へやってくるとき、山手線の目白駅では下りずに、ひとつ先の高田馬場駅で下車していたのではないか?・・・というのが、きょうの散歩コースの前提となる想定だ。つまり、下落合の矢田津世子Click!における坂口安吾のごとく、利行も同じようなことをしてやしなかっただろうか。
 
時期は、1927(昭和2)の半ば、佐伯祐三がいまだ二度目の渡仏をせず、1930年協会第2回展(617日~30)最後の『下落合風景』Click!を出品し、利行は作品3点が協会展に入選したばかりのころだ。高田馬場駅で下りた利行は、そのまま下落合へと向かわず、早稲田通りを西へ300mほど歩き、荒物雑貨「中村商店」と「橋本果物店」の間にある道を左折して藤川邸を訪ねた。左折した道を、そのまま真っすぐ進めば戸山ヶ原の「着弾地」へ出ることができる。
 
藤川家の女中に訪いを告げると、しばらく玄関先で待たされたあと、奥から夫の藤川勇造が憮然とした表情で出てきて、「栄子はいま外出中だ」といった。利行がなにか話そうとすると、「妻になんの用かね?」とたたみかけるように訊かれた。利行は美校の大先輩であり、二科展の審査員でもある藤川勇造がおっかないので、上がりこんで腰をすえるわけにもいかず、そのまますぐに辞して「そや、また佐伯はんとこやろ」と期待したかもしれない。
 
藤川アトリエから下落合をめざすには、早稲田通りを反対側へとわたり、50mほど高田馬場駅のほうへもどって、「木川田写真館」と小間物「三原屋」の間の道を左折する。前のめりになるほどの急坂Click!を下りて、真っすぐな道を少し北へ歩くと、旧・神田上水へ斜めに架かる宮貝橋へとさしかかる。それをわたり、右手に銭湯(現・世界湯)を見ながらしばらく歩くと、もうひとつの橋に出る。近い将来、旧・神田上水の直線化工事が予定されており、すでに分水流が掘削されていて、のちに宮田橋と呼ばれるようになる橋の仮設橋だ。プレ宮田橋をわたると、すぐに西武電車が走っているのが見え、下落合氷川社前の下落合駅Click!と背後に繁る氷川の杜が見えてきた。 
 

 
踏み切りをわたって、氷川社の境内をまわりこむように歩き、利行は氷川前派出所の巡査がジロジロと自分を背後から見送っているのを痛いほど感じながら、ようやく七曲坂Click!の下へとたどり着いた。七曲坂を上りはじめると、左手に巨大な西洋館(大島久直邸Click!)が少しずつ見えてくる。坂を上りきり、右手に庚申塚Click!のある尾根上の交差点から、左の子安地蔵通りへ入ると、すぐ左側に満谷国四郎アトリエClick!がある。ここの新妻も「美女」Click!だというウワサを聞いていたし、満谷邸の斜め南隣りには九条武子邸Click!もあるので、利行はあたりをキョロキョロしながら歩くのだが、それらしい女性は見あたらない。いや、そんなことをしてる場合じゃなく、「ボクはいま、栄子ちゃん一筋や」・・・と、下落合を斜めに横切る通りをずんずん歩いていった。
 
途中で、諏訪谷Click!へ抜ける道を左折する。100mほど進むと、曾宮一念アトリエClick!の前にさしかかった。まさに、曾宮先生が庭に出て、じょうろでヒマワリClick!に水をやっている姿が見えた。利行は、江戸っ子でクールな曾宮がちょっと苦手なので、「あっ、おおきに(こんにちは)」と頭を下げて通りすぎようとした。「えーと、あんた、誰だっけ? 礼をいわれる筋合いはないぜ」と曾宮一念Click!に訊かれ、少しへどもどしながら「あ、あの、いつか、里見はんと二科でいっぺんお目に・・・」、「ああ、京都の長谷川君てったっかな? きょうも、里見君とこかい?」、「そうどす、おおきに」と頭を下げてそそくさと通り抜け、佐伯アトリエへと急いだ。
 
青柳ヶ原Click!の道を西へたどり、ハーフティンバーの大きな西洋館(中島邸)と青柳邸の間の細い路地を右折すると、すぐに佐伯アトリエに着いた。でも、藤川栄子の姿はここにもなかった。「あのな~、きょうはな、まだ顔見ィへんし」、「きのうは、絵を描きにおみえでしたのよ、残念だこと」と佐伯夫妻の言葉を背に、利行はそろそろ腹も空いてきたので、ひょっとすると「栄子ちゃん」は里見勝蔵のところかもしれない・・・と、身勝手な想像をしながら気を取り直して、さっそく佐伯邸の路地を北へたどり、突き当りを右折して下落合630番地の里見アトリエへと向かった。
 
しかし、里見邸にもやはり藤川栄子はおらず、夕方近くにもなったので「きょうの夕飯は、ここにしとこか」とばかり、「いや~、里見センセ、きょうはちぃとばかり絵ェの話でも聞いとくれやすな」とかなんとか出まかせをいいながら、身長180cm近い大きな図体を里見邸の上がり框へドッカとすえてしまうのだ。里見勝蔵は、「またかいな」とは思いつつ、1930年協会の将来有望なメンバーだと考えているので、「ま、入り」、「ほな、上がらしてもらいます」と利行を招き入れた。
 

 長谷川利行が一方的に大好きだった藤川栄子だが、利行が死ぬ直前に養育院から出した「洋の草花とパンと西洋菓子」をもってきてくださいという最後の手紙Click!を、彼女は「うっちゃっといた」ままおそらく棄てた。きっと、利行のつきまといに、ウンザリさせられていたうちのひとりなのだろう。

◆写真上:戸塚866番地周辺には、戦災にも焼け残った一画がそのままみられ、大正末から昭和初期に建設された家屋の中を歩いていると、まるでタイムリープをしたような気分になる。
◆写真中上:上は、1928(昭和3)に藤川アトリエで撮影された藤川勇造()と藤川栄子()。下左は、藤川アトリエ跡の現状で手前にある銭湯・福の湯(旧・戸塚温泉)が戸塚867番地で奥が866番地。下右は、おそらく昭和初期の建築と思われる和風住宅のひとつ。
◆写真中下:上左は、早稲田通りから藤川アトリエのある戸塚866番地へと入る道路の入り口。上右は、早稲田通りの反対側から下落合へと向かう急坂の入り口。いずれも、『戸塚第三小学校/周辺の歴史-付昔の町並み』(1995)より。下は、1929(昭和4)の戸塚町市街図。
◆写真下:上は、旧・神田上水に架かっていた宮貝橋跡()と現在の宮田橋()。下は、1929(昭和4)の落合町市街図をベースに想定した長谷川利行の戸塚・下落合散歩コース。