この前、家の留守番電話に妙なメッセージが録音されていた。電話機は、買ったときの一般的な応答メッセージを使っているので、相手はまちがい電話にまったく気づかず、そのまま用件を吹きこんでしまったのだろう。「いま東京駅。これから、そちらへ向かいます」という女性の声だった。家族に訊いても、まったく心あたりのない声だしメッセージなので、きっと急ぎの用件で東京へやってきた女性が、駅からあわててかけまちがえた電話なのだろう。中年女性の声だったので、「いま下落合に着きました」、「いま玄関の前にいるの」、「いま、あなたのうしろにいるの」・・・という、お化けの“メリーさん”でもなさそうなので、その日のうちにあっさりと消去した。
 東京駅Click!といえば、そろそろ本来の姿を取りもどしそうなのが、今年の楽しみのひとつになっている。建築家・辰野金吾のもとで、東京駅構内の建具をまかされていたのが「上州屋」の岡野梅三だった。岡野はのちに、知人の請判(連帯保証人)を気やすく引き受けたために会社が左前となり、晩年は麻布市兵衛町の片すみへ逼塞することになる。岡野の孫娘にあたるのが、昨年、歿後30年を迎えた脚本家で小説家の向田邦子Click!だ。
 さて、留守番電話ですぐに思い浮かぶのが、向田邦子の留守電メッセージだ。「向田でございます。わたくし、ただいま旅行に出かけておりまして、もどりますのは25日の夜遅くです。泊まり先を申し上げますので、お急ぎの方はそちらへご連絡ください・・・」というのが、この世に残された最後の肉声となった。向田の作品には、家族のしがらみにもがく人間と、家族の“絆”に支えられる人間像とが、表裏一体となって描かれることが多い。どこかアンバランスな性格や、ときには狂気を抱いた人物が、最後の拠りどころとしてゴム紐のように、もどかしく不器用に手繰り寄せるのが、家族や家庭という人間関係だったように思われる。特に、向田にとって父親の存在は、いい意味でも悪い意味でも巨大だったらしいのだが、ファザコンといってしまえばそれまでなのだけれど、彼女には右肩の上あたりから自身を客観視できる、もうひとつ別のクールな眼差しが備わっていた。
 向田邦子は、東京の若林で生まれ目黒で育った乃手Click!の女性であり、父親が威張っていておっかない山手家庭の出なのだが、保険会社につとめる父親の転勤にくっついて鹿児島や高松へ・・・と転校を繰り返す少女時代を送っている。父親が仙台へ転勤になったとき、女学校に合格していた彼女は東京に残り、先の麻布市兵衛町に住んでいた祖父母のもとでしばらくすごしている。その後、ようやく東京勤務にもどれた両親や弟妹と、再び彼女も同居するようになった。
 
 向田邦子が少女時代に迎えていた正月の様子を、1978年(昭和53)に出版された『父の詫び状』(文藝春秋)所収の、「お軽勘平」から引用してみよう。
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 晴着を着て初詣をしたり、新春顔見世興行のお芝居を見に行ったことは一度もなかったような気がする。/お正月は、おとそ機嫌の年始客を出迎え、履物を揃え、ショールやとんびClick!を預り、とって返してお燗番をし、父に呼ばれれば座敷に挨拶に出る。/酒の湯気にあたったのか、火鉢の炭火の一酸化炭素のせいか、ぽおっと酔ったようになり、夕方になるといつも頭痛がした。火照った舌には蜜柑が一番おいしかった。/物心ついた時からそんな風だったから、そういうお正月を私も至極当り前と思い、格別親を恨む気持ちはなかったが、下町育ちで、町方の娘らしいお正月を知っている母は、私を可哀そうに思ったのだろう。小学校三年のお正月に、私を外へ遊びに出してくれた。/「お父さんのお客さまが見えてからだと、お前も出にくくなるだろうから」/と早めに着つけをしてくれ、お友達のところへ行っておいでといわれた。
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 当時の「町方の娘」とは、まったく異なる正月を迎えていた「乃手の娘」らしい様子がうかがえる。父親のもとへ大勢やってくる年始客とは、保険会社の部下や取引先の人々だったようで、向田邦子はその接待係に毎年かり出されていた。もうひとつ、支店長勤務だった父親は正月になると、つとめていた保険会社の社長宅へ挨拶に出かける決まりになっていた。全国に点在する拠点の支店長や本社の管理職が、正月に社長宅へ集合して訓辞を聞くのが、この会社の恒例行事となっていたようだ。向田家に同居していた祖母が死去したとき、その保険会社の社長が東京にもどっていた向田家へ、弔問に訪れるシーンが描かれている。同書の「お辞儀」から引用してみよう。
 
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 祖母が亡くなったのは、戦争が激しくなるすぐ前のことだから、三十五年前だろうか。私が女学校二年の時だった。/通夜の晩、突然玄関の方にざわめきが起った。/「社長がお見えになった」/という声がした。/祖母の棺のそばに坐ってい父が、客を蹴散らすように玄関へ飛んでいった。式台に手をつき入ってきた初老の人にお辞儀をした。/それはお辞儀というより平伏といった方がよかった。当時すでにガソリンは統制されており、民間人は車の使用も思うにまかせなかった。財閥系のかなり大きな会社で、当時父は一介の課長に過ぎなかったから、社長自ら通夜にみえることは予想していなかったのだろう。それにしても、初めて見る父の姿であった。
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 この保険会社とは第一徴兵保険(のち東邦生命)のことで、父・向田敏雄は1939年(昭和14)からの数年間、社長宅への年始挨拶は下落合の御留山Click!へとやってきていただろう。相馬孟胤Click!の死去から3年後、1939年(昭和14)に相馬邸Click!が下落合の御留山から中野の広町20番地の屋敷へと転居したのち、同邸には東邦生命の社長・太田清蔵Click!一家が住んでいたからだ。1941年(昭和16)ごろ、御留山の宅地開発Click!とともに旧・相馬邸の母屋は解体され、黒門Click!は九州へと移築されてしまうのだが、それまで彼女の父の“下落合参り”はつづいただろう。
★その後、第一徴兵保険の社長宅が1945年(昭和20)まで御留山にあったことが判明Click!した。

 
 向田邦子は、父親の葬儀のとき誰もいない居間で、もはや座る人のいなくなってしまった座布団を前に平伏している姿を、家族(妹)に目撃されている。彼女は、乃手家庭を思わせる威張って強情な父親のいるドラマを数多く創作したが、晩年の10年間に生みだした小説では、頑固だがやさしい下町の父親像も描いている。でも、向田邦子のような女性は、下町の父親像には違和感をおぼえたものか、小林信彦とは正反対の視座から表現すれば「理解を超えていた」Click!のかもしれない。いまひとつ消化しきれていないようで、“下町の父親”の描き方にはややリアリティが希薄なのだ。

◆写真上:相馬孟胤邸(のち太田清蔵邸)の「居間」あたりに残る、内庭のものと思われる庭石。
◆写真中上:正月の情景でお節料理(左)と、いつもどおり寝正月を決めこんでいるネコ(右)。
◆写真中下:左は、1978年(昭和53)に出版された向田邦子『父の詫び状』(文芸春秋)。右は、2002年(平成14)に出版された向田和子『向田邦子の恋文』(新潮社)より。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる相馬邸。翌年、相馬家は中野へと転居し、第一徴兵保険(東邦生命)の太田清蔵が入居してくる。しかし、1943年(昭和18)までに母屋は解体され宅地造成がスタートしているので、太田家が住んだ期間は3~4年と短かっただろう。下は、相馬邸内Click!の「応接室」(左)と「表座敷」(右)。正月に全国の支店長らを集めたとすれば、玄関の2階にあった「応接室」では狭すぎるので、玄関奥の左手にあった「表座敷」だと思われる。