1917年(大正6)6月、陸軍士官学校では地形の測量演習を実施している。そして、それをもとに同年8月に印刷された下落合や上落合を含む5,000分の1地形図が現存している。大正初期の同地域を知るうえでは、またとない地図なのだが、地形の把握(測量結果)が陸軍参謀本部の陸地測量隊による10,000分の1地形図とは、多少異なるところがあるのは興味深い。それは、参謀本部の地図が基本的に1909年(明治42)に測量した地形図Click!に、少しずつ改訂を加えつづけているのに対し、陸軍士官学校の演習地図は1917年(大正6)現在に採取した、リアルタイムのデータを反映している可能性が高いからだ。
 では、陸士の演習地図の中で、気がついた面白いポイントを少し見ていこう。大きな大島久直Click!邸のある七曲坂Click!の上、現在の落合第四小学校がある北側の道沿いに、下落合630番地へ引っ越しをする前の森田亀之助邸Click!と思われる住宅が1戸、下落合323番地に採取されている。ここには、しばらくしてテニスコートがつくられるが、いまだ造成はされていないようだ。
 下落合氷川明神の西北部「本村」には、すでに住宅が建てこんでいたようで、大正初期の旧・下落合地域の中でもかなり賑やかなエリアとなっていたのがわかる。西坂の徳川邸Click!にはこの時期、敷地を囲む並木あるいは生垣が形成されていたようで、邸敷地の範囲がよくわかるのだが、邸の東側あるいは西坂下にあった池がまだ描かれていない。敷地内が広く庭園として整備され、池が造られたのは大正の中期以降だったことがわかる。また、西坂を下りきった徳川邸の南側には、やはり屋敷林か生垣に囲まれた川村邸Click!の描かれているのがめずらしい。
 上落合に目を移すと、光徳寺の東側には福室軒牧場と思われる草原が描かれている。「南耕地」と呼ばれた周辺は、さらに南の「八幡耕地」といわれた月見岡八幡社周辺と同様に、家々が集まっていたのがわかる。のちに、東京護謨Click!や各社の製薬工場などが建設される「前田」地区Click!は、いまだ水田が拡がる田園風景だった様子が記録されている。
 上落合とは、旧・神田上水をはさんだ反対側(東側)、上戸塚の「久保田」Click!エリアを眺めると不思議なものが目につく。「新高田馬場(蹄跡)」という、柵で囲まれた細長い敷地だ。こんなところに、「新高田馬場」があったという話を、わたしはかつて一度も聞いたことがない。あんのじょう、この「新高田馬場」は明治末には存在せず1921年(大正10)にはすでに消えてしまっているので、きわめて短期間しか存在しなかったと思われる。
 

 戸塚村にある山手線の駅名に、地元から「上戸塚」あるいは「諏訪ノ森」という候補が出ていたにもかからわず、幕府の高田馬場(たかたのばば)とはまったく場違いな、架空のオリジナルの駅名「高田馬場(たかだのばば)」Click!で強引に押し切ってしまい、その後も地元から事あるごとに批判を受けていた鉄道院が、「たか“だ”のばば」駅を正当化する“アリバイ”づくりのために経営していた馬場でもあったのだろうか? いわく、「駅の東には幕府の高田馬場(たかたのばば)があり、西にも新高田馬場(たかだのばば)があるのだから、駅名は高田馬場だってい~じゃないか」。(爆!) 万が一、そうだとしたら“マッチポンプ”もはなはだしい。
 余談だけれど、大久保駅や新大久保駅も、実際の大久保の中枢エリアからは西へ大きくズレているのだが、百人町停車場に決まりかけていた駅名が、急に新大久保停車場になったいきさつにも、地元と鉄道院との確執を想像してしまうのだ。百人町停車場は当時、すでに地図にも刷られて広く配布されていた。目白も目黒もそうなのだが、どうして日本鉄道や鉄道院(省)は駅が建設される場所の地名ではなく、かなり離れた地域の地名Click!(当初からの計画駅名だったから強引なのか)に固執するのだろうか? 地元の地名を自然に反映させた駅名をつけるとするなら、新宿駅=角筈駅、新大久保駅=百人町駅、高田馬場駅=上戸塚駅or諏訪ノ森駅、目白駅=高田駅・・・ということになるだろうか。甲武鉄道(中央線)の柏木駅だが、実際の柏木地域からは旧・神田上水をはさんで西へかなりズレていたため、のちに東中野駅と改名したケースもある。
 陸士演習地図の戸山ヶ原に目を移すと、百人町の北側には陸軍科学研究所も技術本部もまだ建設されていない。戸山ヶ原を横切る細道(野道)があちこちに見え、また道路とまでは呼べない人々が踏み固めたような筋が縦横に走っているのがわかる。あるいは、陸軍が演習で掘り返した長大な塹壕跡なのかもしれない。1917年(大正6)といえば、いまだ第1次世界大戦の真っ最中であり、ヨーロッパにおける塹壕戦の様子は当然、日本にも詳しく伝わっていただろう。それらの情報をもとに、近衛師団あるいは第1師団の塹壕演習が行われた可能性がある。
 

 また、「おや?」と感じる記載もある。山手線をまたいだ、大久保射撃場Click!の着弾地に指定されたエリアに、「大神宮」の鳥居マークが見えている。下落合の大神宮Click!と同様に、主柱は農事の神としておそらく江戸期に勧請されたのであろうアマテラスなのだが、正式名称は「天照皇大神宮」と呼ばれていた。陸軍は、アマテラスへ向けて銃砲の弾を撃ちこんでいたことになる。のちに「天祖神社」と改称しているが、現在でも元の位置を動かずにいる。
 陸軍の射撃や砲撃演習がはじまると、射撃場の射垜(しゃだ/防弾堤のこと)上に高々と「紅旗」が掲げられ、付近の道筋には警戒の兵士が配置されたのだが、射撃場から飛び出してくる流れ弾Click!を防ぐことはできなかった。流弾による被害は明治の後半期からつづいており、ついに中野に住んでいた女の子が犠牲になっている。1911年(明治44)に発行された『新撰東京名所図会』(西郊の部)には、明治の射撃演習による初めての死者の様子が記録されている。
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 戸山の原に陸軍射撃場設置以来此地流弾の厄に遭ふ。因て地所の買収若くは射撃場の移転を請求する者多し。(明治)二十七年以来流弾多くして人家にも及び。(ママ) 遂に中野居住の少女を傷け死に至らしむ。是に於て射垜を改築せしも。(ママ) 尚ほ十分ならずとの聞えありしかば。(ママ) 陸軍省は三十一年八月北通り全部の買収を結構せり。是より兵士の練兵場となりぬ。
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 しかし、戸山ヶ原の周囲をいくら買収・拡張しても、流弾は中野や上落合、戸塚、大久保、はては市ヶ谷のほうにまで飛んでいくので、ほとんど意味がなかっただろう。最初の死者から10数年後、抜本的な改善策をとろうとしない陸軍に対し、周辺自治体の住民たちがついに激怒して「出ていけ」運動へと発展するのは、すでに記事Click!でご紹介したとおりだ。


 
 陸軍士官学校の5,000分の1地形図は、同校の測量演習が目的で作成されているため、陸軍用地である戸山ヶ原が地図の中心となっている。したがって、落合地域は下落合の東南部、上落合の東部のみしか収録されておらず、全体を鳥瞰できないのが残念だ。陸軍参謀本部が作成した、一般的な10,000分の1地形図では確認できない、細かな地形のディテールまでが表現されているので、大正初期の落合地域を知るうえではまたとない貴重な資料といえるだろう。

◆写真上:1917年(大正6)6月に、陸軍士官学校が測量演習で作成した1/5,000地形図。
◆写真中上:上は、下落合界隈にも10,000分の1地形図には見られない詳細な表現が見られる同地図。下は、戸山ヶ原(現・西戸山)の夕暮れ。
◆写真中下:等高線の感覚は2mで、旧・神田上水両岸の起伏に富む様子がとらえられている。
◆写真下:上は、戸山ヶ原に採取された塹壕演習の跡のような細長い窪地。中は、すでに南側へ陸軍科学研究所および技術本部が建設された1936年(昭和11)の空中写真。下左は、着弾地にあった大神宮の現状。下右は、山手線西側に展開した戸山ヶ原の最高点あたりから西新宿を望む。