1920年(大正9)1月11日(日)の午後9時30分ごろ、中村彝アトリエClick!から林泉園Click!の谷戸をはさんで南東へ150mほど、また静坐会Click!の岡田虎二郎邸Click!がまもなく建てられる近衛町Click!の敷地から西へ50mほどのところにあった、相馬孟胤邸Click!の「神楽殿」が炎上するという事件が起きた。まだ就寝するには早い時間帯なので、子安地蔵の斜向かいに落合消防団の火の見櫓Click!が当時すでに建設されていたとすれば、その半鐘の連打で中村彝Click!もこの火事に気づいただろう。同日、兵庫県の伊原弥生あてに手紙を投函していた中村彝は、このときアトリエで『伊原元治像』の仕上げの筆をとっていたか、あるいは『目白の冬』Click!を描くことになるキャンバスの準備をしていたかもしれない。
※岡田虎二郎は生前、下落合356番地に住んでいたことがわかり、近衛町の下落合404番地は彼の死後、大正末に家族が転居した住所であることが判明Click!した。
 1月11日は終日雨が降りつづき、カラカラに乾燥した晴れの日が多い中で久しぶりの“おしめり”となった。出火した神楽殿は、この時期には相馬邸敷地の北東隅にあたる道路際に建立されていたと思われる、妙見社(太素神社)Click!に近接していた建物だとみられる。相馬邸の東側に近衛町はいまだ造成されておらず、林泉園の谷間沿いに拡がる森の中でいきなり上がった火の手に、相馬邸母屋の人々Click!はもちろん、周辺の住民たちはかなりあわてたのではないかと思われる。翌1月12日に発行された、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
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 焼跡より疑問の死体/下落合の火事で
 昨夜九時半頃府下下落合三一〇子爵相馬孟胤氏邸内東北隅に勧請しある同家守本尊妙見堂脇の神楽殿より発火したるを同家の自動車運転手宮本文三郎(三二)が発見報知せる為同村消防夫急遽馳せつけ消火に努めしかど間口二間奥行三間総檜造りの神楽堂全部を灰燼に帰し十時鎮火したるが焼跡床下より印半纏を着したる職人風の男黒焦げとなりて発見されしにぞ新宿署より松浦警部補外数名の警官出張し同邸の人々立会の上検視せる処印半纏の襟に染出したる『商店』が微かに認め得るのみにて人相其他判明せざるも同邸に関係無きが判明し死体は村役場に引渡せしが同所は住宅より約一丁道路より三十間離れ外部より入り難き処にて、妙見堂及び神楽殿は毎年四月二十一、二日両日の例祭を除きては平素衆人の参拝を許さゞる処なれば何者か塀を乗り越して忍び入り神楽殿の床下に潜み寒気の為焚火して寝込みたる結果なるべしとの事なるが新宿署にては或は死体を運びて火を付けた(ママ)るには非ざるやとの疑ひもあり厳重取調を為し居れり
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 この中で、おかしな記述が2箇所ある。まず、妙見神を奉った建物は社(やしろ=神社)であって仏堂ではない。また、「道路より三十間」(約55m)離れたところに神楽殿は建っていたことになっているが、妙見社の本殿拝殿は相馬邸北辺の道路からわずか10m前後のところに建っていたのであり、神楽殿のみがポツンと遠く離れていたとは考えにくい。しかも、記事では神楽殿の位置を「邸内東北隅」と規定していることから、「道路より」は「相馬邸の正門(黒門Click!)より」55mほど邸内に入ったところと読み替えたほうが自然だろう。記者(新宿署の捜査員も?)は、おそらく妙見社本殿のすぐ裏手に黒門前からつづく道路(東側の林泉園からの谷間に向かって下り坂)が横切っているとは、暗闇の中の取材でもあり、いまだ気づいていない可能性が高い。
 わずか30分ほどの火災にもかかわらず、総ヒノキ造りの神楽殿が全焼している。そして、同殿の床下より焼死体が発見されたことから、新宿署の刑事たちが出向してくるのだが相馬邸内に行方不明者はなく、外部からの侵入であることが同夜のうちに推測されている。その後、新聞には同火事に関する追跡報道がまったくなされていないので、おそらく事件性は低く浮浪者(ホームレス)の焚火による失火ということで落ち着いたのだろう。ところが、これが同日に発行された読売新聞になると、相馬邸は陰謀うず巻く伏魔殿のようになってしまうのだ。
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 相馬子爵邸内から黒焦の死体現る
 昨夜邸内の神楽殿炎上/最初の発見者は宮本運転手/昨夜十時二十分豊多摩郡下落合三百十番地子爵相馬孟胤氏邸内奥庭の神楽殿の下より発火し、見る見る周園に燃え広がらんとするを同邸の自動車運転手宮本文蔵(三二)が発見し邸内の人々駈集まり神楽殿を焼尽くしたるのみにて消し止めたるが、直に新宿署より係官出張取調べたる所、焼跡より人間の黒焦死体一個現れ出たり、全身焼け爛れて男とも女とも見分け難きも年齢三十位の男ならんと鑑定さるその他は一切不明にて厳重取調中なり、同所は二重三重の塀あり外部より人の入るべき所にあらず、重大の事件として極力死体の検案中なり
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 東京朝日と比較すると、そもそも事実関係で出火時間が1時間ほどズレている点と、運転手名が異なっている点が気になる。また、北東隅の道路際にあった妙見社近くの神楽殿が「奥庭」にあったことになり、祭礼日には住民が参詣するため本殿裏に設けられた道路から社への入り口あたりが、塀を「二重三重」にめぐらした厳重な要塞のようにも書かれている。当時の下落合住民は、「奥庭じゃなくて、オレもお詣りしたことある黒門前通りのすぐ脇なんだけどな」と、おそらく不可解に感じたのではないか。
 さらに、東京朝日新聞では消防団が駆けつけたと報じられているが、読売新聞の記事では消防団の存在にまったく触れられておらず、相馬邸内の人々だけで火災を消し止めたように書かれている。黒門前の通り、すなわち一般道に近い位置の建物が燃えているのだから、遅かれ早かれ落合消防団Click!が駆けつけて、消火作業にあたったとみるほうが自然だろう。すなわち、読売の記事では邸内でなにか事件が起き、死体を神楽殿の床下へひそかに隠して放火した・・・と、読者へ予断をもたせるように表現されている。記者は、明治期のスキャンダラスな「相馬事件」を念頭に記事をこしらえているのだろう。
 わたしは、当日の冷たい雨と寒さをしのぐため、ひそかに神楽殿の床下で寝泊まりしていたホームレスが、就寝前に暖をとろうとしておこした焚火が、乾燥した神楽殿の床下に燃え移ったのではないかと想像している。印半纏を着た30歳ぐらいの男は、泥酔して熟睡していたものか、あるいは火を消そうとしているうち火勢にのまれてしまったのではないだろうか? 当時、東京の浅草をはじめ寺社建築の床下では、類似の火事やボヤ騒ぎが各地で頻発している。第1次世界大戦による「大戦景気」は、前年の繊維価格の暴落をきっかけに後退しはじめており、火災が起きた1920年(大正9)の3月には金融危機をともなう戦後恐慌が起きている。失業者が増加しホームレスがめずらしくなくなった当時の世相は、どこか現在に似ていた。
 
 もうひとつ、改めて気づくことがある。『相馬家邸宅写真帖』Click!(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)では、なぜ太素神社のみがポツンと離れ、目次の通し番号からも外れて掲載されているのか?・・・というテーマだ。おそらく、神楽殿が全焼したこの事件と無関係ではないように思える。当初の写真帖には、太素神社の本殿拝殿とともに神楽殿の写真も掲載されていたのではないだろうか。神楽殿が焼失したことにより、のちに写真帖を再編集する必要性が生じた・・・と考えるほうが自然のように思える。そして、同事件が起きたため太素神社を、相馬邸の北東隅から別の位置へ移動Click!しやしなかったか?・・・、あるいは写真帖に掲載された太素神社の光線が北向きには見えない・・・というテーマとも関連してくるのかもしれない。

◆写真上:1920年(大正9)現在、太素神社と付属の神楽殿があったあたりの現状。
◆写真中上:上は、1920年(大正9)1月12日の東京朝日新聞記事。下左は、1918年(大正7)の早稲田1/10,000地形図にみる相馬邸。太素神社境内の描写で、左側(西側)に突き出て表現されている建物が神楽殿だろうか。下右は、神楽殿焼失後の1922年(大正11)に作成された都市計画東京地方委員会1/5,000地形図にみる相馬邸。
◆写真中下:1920年(大正9)1月12日に、相馬邸の神楽殿炎上を報じる読売新聞記事。
◆写真下:左は、『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)に掲載された太素神社(妙見社)。右は、黒門前通りの現状で右手の空きスペースが黒門(正門)跡。