1931年(昭和6)に下落合669番地、通称・青柳ヶ原Click!へ国際聖母病院Click!のフィンデル本館が完成したとき、その竣工を記念した絵葉書や写真が存在することは、これまで何度かご紹介Click!してきた。でも、それらの写真にとらえられている周辺の家々についてはほとんど触れてこなかったので、改めて第三文化村Click!を含むそれらの邸を見ていきたい。
 まず、冒頭の写真は、聖母病院が竣工してから間もない時期に撮影された写真だ。手前のススキが茂った原っぱが聖母病院敷地=青柳ヶ原(別名・ススキが原とも)の跡で、前方に見えているのは第三文化村の尾根沿いに建つ家々、つまり八島さんの前通りClick!沿いの第三文化村の家並みだ。手前に口を開けている谷が、大正中期から名称が数百メートルほど西側の前谷戸Click!へと移動してしまったと思われる不動谷Click!(別名・西ノ谷とも)であり、第2の洗い場Click!のある谷底にはまだほとんど家屋が建っていない。その様子から、撮影されたのは病院の竣工時1931年(昭和6)から、1938年(昭和13)までの間であることが想定できる。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」を見ると、この谷底を造成した第三文化村の敷地に家々が建設されるのは、1939年(昭和14)以降であるのがわかる。また、1936年(昭和11)の空中写真を確認すると、尾根上の敷地にはすでに住宅が建っているが、いまだ谷底は箱根土地が造成したままの状態であり、新たに拓かれた道路も南へ向かう途中で途切れているのがわかる。写真には、谷底の宅地に沿って建てられたとみられる電柱が何本か確認できるので、第一や第二文化村とは異なり電源ケーブルを通す共同溝Click!は未設置のように思える。
 写っている邸宅のうち、右の家が佐久間邸であり、さらに画面の右枠外には吉田博アトリエClick!が建設される以前の、大塚邸が建っているはずだ。右下に写っている白い構造物は、聖母病院の屋外に設置された渡り廊下の一部だ。また、中央の建物は東條邸(元・須藤邸)で、敷地内に建っていた小さな離れ、あるいは物置きと思われる屋根までがとらえられている。この東條邸からやや南に離れた、画面の左枠外には佐伯祐三Click!が描いた『K氏の像』でおなじみの、1930年協会の会友でもあった笠原吉太郎Click!邸、すなわちアトリエClick!付きの瀟洒な西洋館が見えているはずだ。わたしの感触では、周囲の樹木の様子や聖母病院の渡り廊下に壁がまだ増築されていない点などから、「シベリア鉄道」と呼ばれ真冬にシスターや看護婦たちを震えあがらせた、吹きっつぁらしの渡り廊下のままだった1934年(昭和9)より以前に撮影された写真のように思われる。
 
 次に、聖母病院に保存されている開業から間もない、手前に聖母坂Click!(補助45号線)を入れて撮影されたワイド写真を検証してみよう。右手のビルは、いうまでもなく1931年(昭和6)に完成したフィンデル本館だが、その左手に小さく見えているいくつかの建物は「共同会」と名づけられた、マリアの宣教者フランシスコ修道会の教会施設群だ。つまり、初代のチャペルがいまだ未建設で見えないことから、この写真が撮影されたのは1931年(昭和6)から1934年(昭和9)までの3年間のうちの、いずれかの年ということになる。
 聖母坂を下って、中央右手に見えているのは慈善院と慈善病院で、養老施設とワイナリーを兼ねていた建物だ。さらに坂を下り、左手前の病院敷地内に大きく写っている2棟の西洋館は、「司祭館」と呼ばれ教会関係者の居住施設だった。日本家屋のような板塀に、それぞれ門が設置されているが、建物自体は洋風の面白い意匠となっている。この2棟つづきの洋館裏に、昭和10年代になると湧水池を利用した釣り堀Click!が開業している。
 つづいて、不動谷(西ノ谷)の西側尾根に見えている家々を順番に見ていこう。まず、中央の折り目右にかかっている屋根は、位置的にみて冒頭の写真に登場した佐久間邸だと思われる。その左手(南側)にあるはずの東條邸の屋根は、手前の樹木に隠れてよく見えない。少し離れてポツンと見えている屋根は、先にも書いた笠原吉太郎Click!アトリエだろう。その左手には、下落合679番地の家々が並んでいるはずだが、樹木が高く成長していてよくわからない。かろうじて見えている屋根は、下落合679番地の西洋館・石川邸のものだろうか。



 そして、画面左端の高台に建つ、いちばんハッキリと写っている大きな西洋館が下落合680番地の邸宅だ。この番地は、1935年(昭和10)前後の地番変更で変わっており、南原繁邸から3軒北隣りのこの高台の敷地も、もともとは下落合679番地だった。すなわち、この邸こそが大正から昭和初期にかけてここで暮らしていた高良とみClick!と、夫である高良興生院Click!の院長だった高良武久Click!の家である公算がきわめて高い。手前に大きく写っているのが高良邸であり、その奧にかすかに見えている屋根が西隣りの松浦邸だと思われる。
 この写真は、青柳ヶ原(聖母病院敷地)とは反対側の、久七坂が通う諏訪谷Click!筋の斜面から撮影されており、いまだ聖母坂に面した病院敷地には、工事中と思われる養生(フェンス)が残っている。おそらく、大谷石による築垣工事がつづいているとみられ、それを考慮すると1931年(昭和6)のフィンデル本館竣工時から間もない時期に撮影された、できたての国際聖母病院の全景であることがわかる。聖母坂東側の斜面には、樹木がまだかなり生い茂っており、いまだ坂に沿った住宅街は形成されていない。だからこそ撮影者は、カメラ片手に斜面をよじ登りながら、病院のほぼ全景がファインダーに収まる撮影ポイントを見つけることができたのだろう。
 
 画面左の道路上には、人物がふたり写りこんでいるけれど、小さくてどのような服装をしているのかがよくわからない。ふたりの手前には、盛り土のようなものが見えているので、聖母病院Click!の外周で上下水道工事、あるいは道路工事をつづけている作業員たちかもしれない。

◆写真上:聖母病院の敷地から、西側を向いて撮影された佐久間邸と東條邸。
◆写真中上:撮影された邸宅(左)と、1936年(昭和11)の空中写真にみる撮影ポイント(右)。
◆写真中下:聖母坂も含めた、竣工して間もない聖母病院の全景(上)と写っている建物の配置(中)。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる撮影位置と家々の位置関係。
◆写真下:左は、佐久間邸や東條邸の下に通う箱根土地が拓いた第三文化村の谷道の現状。右は、聖母病院が建てられた青柳ヶ原の西側だがチャペルの解体とともに風情が変わっている。