先日、東京国立近代美術館で「ぬぐ絵画」展Click!を観たとき、熊谷守一Click!の『轢死』(1908年)という画題が目にとまった。東京美術学校の北側にあった、御隠殿踏み切り(現・日暮里駅近く)で飛びこみ自殺を目撃したことが画因となっている。作品は第2回文展へ持ちこまれるが受け付けてもらえず、白馬会第13回展に出品されている。「ぬぐ絵画」展では、この轢死事件をモチーフにしたとみられる熊谷の『夜』(1931年)が展示されていた。
 同展図録でも指摘されているように、熊谷の画面からはすぐにも、夏目漱石の『三四郎』Click!に描かれた大久保の轢死事件を想起させる。漱石自身も、山手線ないしは甲武鉄道(現・中央線)での轢死事件を目撃していたのかもしれない。戸川秋骨の『郊外日記』(1910年)にも、また国木田独歩の『窮死』(1907年)にも、大久保近辺で頻発する轢死事件が登場している。三四郎が友人の野々宮を訪ねる場面を、夏目漱石『三四郎』(1908年)から引用してみよう。
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 「轢死じゃないですか」/三四郎は何か答えようとしたが、ちょっと声が出なかった。そのうち黒い男は行き過ぎた。これは野々宮君の奥に住んでいる家の主人だろうと、後をつけながら考えた。半町ほどくると提灯が留まっている。人も留まっている。人は灯をかざしたまま黙っている。三四郎は無言で灯の下を見た。下には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳の下を腰の上までみごとに引きちぎって、斜掛けの胴を置き去りにして行ったのである。顔は無傷である。若い女だ。/三四郎はその時の心持ちをいまだに覚えている。すぐ帰ろうとして、踵をめぐらしかけたが、足がすくんでほとんど動けなかった。土手を這い上がって、座敷へもどったら、動悸が打ち出した。 (角川書店版/1997年)
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 この時期、山手線あるいは甲武鉄道(中央線)では轢死事件が相次いでいる。以前、1932年(昭和7)に目白駅と高田馬場駅間で起きた下落合の轢死事故Click!について書いたが、それが予期しない貨物列車の通過による“事故”だったのに対し、明治末から大正期にかけて起きていたのは、ほとんどが飛びこみ自殺だった。それは、両線の線路脇には満足な遮蔽物がなく、踏み切りに限らず線路上へはどこからでも容易に入れたからだ。
 それまで、江戸東京の自殺といえば大川(隅田川)へ飛びこむケースが多かった。明治に入ってからも、大川橋(吾妻橋)や大橋(両国橋)からの身投げClick!はそれほどめずらしくない事件だ。ところが、鉄道が敷設されると「一瞬で楽に死ねる」というイメージが広く流布したものか、鉄道自殺が急増することになる。当時の新聞を見ると、東京郊外を走る山手線や甲武鉄道では轢死事件が続発していたのがわかる。わたしが強く目を惹かれたのは、下落合の東京同文書院Click!(のち目白中学校Click!)へ清国から留学していた学生が、山手線へ飛びこんだ轢死事件だ。1912年(明治45)1月23日に発行された読売新聞から引用してみよう。

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 故国を憂て自殺/十八歳の清国留学生
 昨日午前零時十分頃呉服橋発上野行高架電車が北豊島郡目白村停車場(ママ)を南方へ距る一丁余の線路を進行中年頃十八九歳位の清国人が突然線路内へ飛び込み無惨の轢死を遂げしを板橋署の係官出張して検視せしに道郡高田村千六百八十八下宿業土屋お種方止宿清国人同文書院の学生朱成外(一八)と判然しかば屍体はお種に引渡されたり 故国の革乱を心痛の余り精神に異常を生せしものなりと
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 記事には、「目白村停車場」などという表現が出てくるが、高田(たかた)村の「目白停車場」が正確な表現だ。朱成外が飛びこんだ位置は、ちょうど20年後に大事故が起きるのとほぼ同じ地点だった。山手線は土手上を走っているが、この場所はのちの事故でも問題化したように、高田側からも下落合側からも線路内へ入りこみやすい危険な場所だった。当時は、踏み切りやガードへの迂回を嫌い、線路を横断する人たちもめずらしくなかった。この自殺に先立つ4年前、同じ東京同文書院のベトナム人留学生ファン・ポイ・チャウClick!も自死をとげているが、同書院の中国人留学生・朱成外も祖国の将来を憂えて自殺している。
 この新聞記事のすぐ隣りには、前々日に起きた山手線への飛びこみ記事が掲載されている。場所は百人町停車場(のち新大久保駅)ができる以前の百人町界隈で、先の朱成外が飛びこむ地点からわずか南へ1,500mしか離れていない。自殺したのは、近衛師団の兵士だった。
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 兵士病苦に堪へず轢死/近衛歩兵第四聯隊(ママ)の二等卒
 一昨日午後三時廿五分頃山の手線上り列車が豊多摩郡大久保村字百人町先に差しかゝりし時一人の兵士が線路へ飛び込み無惨の轢死を遂げたるより新宿署の係官出張して検視せしに近衛歩兵第一聯隊(ママ)第八中隊二等卒加藤三五郎(二三)と呼ぶものにて(後略)
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 以上は、明治末1月23日のみの新聞をスクラップした山手線への飛びこみだが、これに輪をかけて多かったのが、夏目漱石の『三四郎』に描かれているとおり、甲武鉄道(中央線)の大久保駅界隈で頻発する飛びこみ事件だった。“流行”といっては語弊があるけれど、昭和初期に大磯Click!の坂田山心中Click!に類似した若い男女の心中事件が続発し、大島三原山の噴火口へ飛びこむ自殺者が相次いだのと同様、明治末から大正期にかけては大久保駅周辺の自殺事件が、新聞の社会面ではひときわ目立っている。



 あまりに轢死者が多いため、大久保村では1912年(明治45)2月7日に村を挙げての大施餓鬼供養を行ない、甲武鉄道や山手線の事件現場を僧侶たちが読経をしてまわった。その様子が、同年2月8日の読売新聞に写真入りで報道されている。(冒頭写真)
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 野外の追弔行列/大久保村の変死者施餓鬼
 昨日午前十時から府下大久保村有志者発起となり同村で変死を遂げた有縁無縁の大施餓鬼を同村西大久保一七八金龍寺に行つた 当日は雨後の快晴に日も暖く定刻前から百数十名の参詣者あり 本堂正面に祭壇を設け「法界非業横死者諸霊魂」と記した白木位牌の前に五色の造花と供物を飾り新たに刻んだ高さ二尺の石地蔵二基と長さ三尺の供養塔二本を各白木綿で包み二人の人夫に担がせて牛込区弁天鳳林寺住職西有慧燈師十四五名の僧侶を従へ同寺の信徒開運講中十四五名が附添つて行列をなし和讃を誦しつ同村内で縊死者轢死者のあつた場所を廻り順路戸山ヶ原へ行つて松原の下に供養塔を樹て再び本堂に帰り住職高崎宗全師となり地蔵尊に浄水読経あり午後式を了つた 来会者は丸山豊多摩郡長、向井新宿署長、蔭本新宿駅長、在郷軍人大久保支部長千田少将 外有志者無慮二百余名
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 施餓鬼供養を行なう僧侶たちの写真は、左手に線路が走り遠方には山手線の新宿駅(2代目)と思われる建物が見えているので、戸山ヶ原を縦断している山手線の百人町あたりか、あるいは僧侶たちが立つ線路土手は戸山ヶ原の西戸山側だと思われる。新宿署長と新宿駅長が並んで出席していることからも、多発する飛びこみの深刻さがうかがえる。
 熊谷守一が『轢死』のスケッチをし、夏目漱石が『三四郎』を執筆したころ、鉄道への飛びこみ自殺は周囲へ強烈な印象を残したのだろうが、時代が下るにつれて別にめずらしい事件ではなくなり、新聞での報道も徐々に小さくなっていく。読売新聞の社会面をたどると、たまに大きな扱いの記事になるのは、「若い女」「美人」「美女」の轢死事件であるケースが多い。1914年(大正2)1月10日の読売新聞に掲載された、たとえば以下のような記事だ。
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 母子の轢死自殺/良人と仲のいゝ美人 / 八日午後七時半頃府下大久保百人町一一三番地先に於て上り列車の進行中廿歳ばかりの美人が愛らしき当歳の男児を負袢纏に負ひたる儘線路に飛込悲惨なる轢死を遂げたり 急報に接し新宿署より森警部補以下の係官出張し検視したるに美人は丸髷の細面にて色白く美貌にて・・・(後略)
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 熊谷守一が、轢死事件を目にして写生したのが1903年(明治36)5月3日、それをタブローの『轢死』に仕上げたのが1908年(明治41)だから、すでに目撃から5年の歳月が流れている。熊谷にとっては、それほどショッキングな出来事で消化するのに時間がかかったのか、あるいは文展の受け付けで拒絶されているように、それまで誰もモチーフにしたことがなかった女性の轢断死体(裸体)を描こうと思いついたのが、5年後のことだったのかはさだかでない。

◆写真上:1912年(明治45)2月8日の読売新聞より、大久保村の山手線沿いで行われた施餓鬼供養の様子。線路際に並ぶ電柱の向こうに、2代目・新宿駅が見えている。
◆写真中上:同文書院の留学生が自殺した、1912年(明治45)1月23日の読売新聞記事。
◆写真中下:上は、熊谷守一が1903年(明治36)に画帳へスケッチした轢死女性。中は、第2回文展へ出品しようとして拒絶された熊谷守一『轢死』(1908年)。下は、『轢死』をベースに1931年(昭和6)に改めて制作された熊谷守一『夜』。
◆写真下:左は、昭和初期に撮られたと思われる戸山ヶ原を通過する山手線。線路向うに見えているのは、着弾地に陸軍が造成した流弾防止用の通称「三角山」と呼ばれた築山で、射撃場側から西戸山方面を向いて撮影している。右は、1911年(明治44)に作成された「大久保市街図」で百人町停車場(のち新大久保駅)は未設だ。