笠原吉太郎Click!の画面が厚塗りなのは、絵筆をほとんど使わないからだ。ペインティングナイフを主体に描いていたことが、笠原吉太郎の三女・昌代様の長女である山中典子様Click!の証言から明らかになっている。モノクロ写真からは、なかなか画面の細かなタッチまでは読みとれないが、別の姻戚の方からお送りいただいた『下落合風景(小川邸の門)』Click!を拝見し、描画の仔細なマチエールまでを初めてうかがい知ることができた。
 笠原吉太郎が仕事をする様子を、1973年(昭和48)に発行された『美術ジャーナル』復刻第6号に掲載の、外山卯三郎Click!「画家・笠原吉太郎を偲ぶ」から引用してみよう。
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 笠原吉太郎氏の作品の根底は、自然写生であったといえるのです。大正末頃から初まる(ママ)一連の写生を見ますと、まだ画筆による描写が多くて、ユトリロ風のナイーブな自然主義的な描写が多かったのですが、ヴラマンク的な自然主義に接近するのにつれて、だんだんとペインティング・ナイフを多く使用するようになり、昭和時代に入ると、その殆んど悉くの描画がペインティング・ナイフによって、直截にまた簡明に処理されるようになってきたのです。そのために、一見すると、その作画が非常にスピードをもった一筆描きのように強く、ナイフで両断されているのであったのです。このスピードのあるナイフの一筆描きの手法によりますと、かって絵筆によって一筆一筆と、太陽光線を分解しながら、眼に見えるままを描写していた印象派の画家たちの手法は、一度にかきけされてしまう新表現になったと思われたのです。
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 笠原吉太郎が1933年(昭和8)、約5ヶ月間にわたり「満州」へ写生旅行をしているのは、結婚をした長女・美代子様の夫が南満州鉄道株式会社の付属病院へ勤務していたためであり、嫁ぎ先の家庭を頼っての渡満だったことも判明している。
 わたしは、笠原吉太郎が満州へ制作に出かけているのは、下落合679番地にあった笠原邸の斜向かいに住んでいた、満州国総務長官の星野直樹と親しかったことに起因しているのではないかと想像していた。笠原吉太郎の美寿夫人の旧姓は「星野」であり、斜向かいの星野家は群馬県の実家を介しての姻戚関係ということになる。星野直樹はのち、1941年(昭和16)に発足する東條英機Click!内閣の書記官長をつとめることになる人物だ。だから笠原の満州作品は、当時の星野家を通じてなんらかの満州旅行ルートを想定していたのだが、実情はまったく異なっていた。

 山中様より、笠原吉太郎の興味深いエピソードも再びうかがった。笠原が皇室の女性用礼服デザインをしていたことは、以前の記事でも触れているが、大正天皇の即位式に皇后が着る礼服など、明治末から大正初期にかけて70種類以上のドレスデザインを手がけている。それが機縁となったものか、笠原は千葉県の三里塚Click!へ写生旅行に出かけている。三里塚には、もちろん天皇の「御料牧場」があったからで、戦後、その広大な敷地と用地買収および土建の利権に目をつけた政府自民党が、地元の猛反対を無視して空港建設を強行し、のちに大混乱をまねくことになるのだが、当時は牧場と農地が拡がるのどかな一帯だった。
 笠原吉太郎は、「御料牧場」の中へ入りこんで写生をしていたらしく、戦災で焼けていなければ、おそらく三里塚の牧場や牛馬を描いた作品がどこかにあるのだろう。このとき、笠原は警備要員に「この中で絵を描いてはダメだ」と、牧場内から退去させられている。ところが、笠原がのちに“カード”を提示したとたん「どこでもご自由に写生してけっこうです」ということになったらしい。おそらく、皇室に出入りして仕事をしている人物特有の、「パスポート」のようなものが当時からあったらしく、それがどのような“身分証明カード”だったのか興味を惹かれる。
 1927年(昭和2)に銀座の宮沢家具店2階で、第2回「笠原吉太郎洋画展覧会」が開かれており、1930年協会Click!のメンバーたちが図録へ序文を寄せている。長いが全文を引用してみよう。
 
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 十九世紀末印象派の絵画は視覚によって、太陽光線を分解して、原始人が想起した----眼に見えるままを描くこと----に成功した。/しかしそれは小さな成功で案外つまらなかった----絵画とはこんなものではない----と。/かくて二十世紀初頭来、心鋭なる画家は新表現を求めた。/笠原氏もその一員である。旧来の凡庸なる表現は無惨に打ち捨て、自然の霊に直接ふれんため外容は極めて極力簡潔に色彩は清鮮である。/技巧の画の時代はすぎた。今は内容の画であらねばならない。/同氏の画がそれだ。 (里見勝蔵)
 笠原氏の芸術は、氏の楽天的な、愛心のある、ユーモアに満ちた気質から生まれたものです。/苦しんでは考え、熱望しては画く(ママ)のが、われわれの中の大部分で、楽しんでは見、飄々としては画くのが残りの中の一部です。ですから前の者には、お互の尊敬と同情とをもちやすいのですが、後者の者にはそれを忘れ勝です。/ですが、楽天家の胸中の朗さ清らかさは、依然として変りないものと思われます。 (前田寛治)
 笠原氏の絵は谷間に咲いたりんどうの花である。それには清らかな美しさがあると同時に、また淋しさがひそんでいる。この淋しさは冷たいものではなく、見る人に温い愛情をもたせるものである。りんどうの花は、限りなく清い色彩を有しているが、華かな造園の香気を有していない。ここに笠原氏の絵の特色がある。/然し、この花は谷間に咲いた花である。華かなちまたに持ちだされることはないにしても、一度その美を知った人は、人知れずに、この花を谷間におとずれるだろう。ここに彼の淋しさがあると同時に、彼の性格がひそむのである。/笠原氏の絵は谷間に咲いたりんどうの花である。わたくしは限りなく、この花をめでるとともに、また彼の絵をも愛する者である。 (外山卯三郎)
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 外山卯三郎によって、笠原吉太郎は「谷間に咲くりんどうの花」と表現されるのだが、翌1928年(昭和3)に発行された『中央美術』2月号では、里見勝蔵が「野に咲くあざみの花」にされてしまっている。この時期、大学を出たての外山卯三郎は、画家たちをみんな野花にたとえるのが好きだったようなのだが、佐伯祐三Click!や前田寛治Click!がなんの花にたとえられているのか、いまだ資料を発見できないでいる。また、のちに外山卯三郎と結婚することになる野口一二三(ひふみ)Click!は、笠原吉太郎に絵画を習っていたらしく、笠原アトリエで花の写生をしていた様子が伝わっている。
 

 笠原吉太郎は、ペインティングナイフを使ってキャンバスに直接描いていくので、鉛管の消費量が並みではなかったらしい。しかも、国産の絵の具は使わず、すべてフランスからの高価な輸入品を使用していたそうだ。おそらく、神田小川町の文房堂で購入していたのだろう。そのため美寿夫人は、家計のやりくりがとてもたいへんだったというエピソードも教えていただいた。

◆写真上:モノクロ写真でしか観られない、1921年(大正10)ごろ描かれた笠原吉太郎『ダリヤ』。
◆写真中上:1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる、笠原吉太郎邸とその周辺。
◆写真中下:左は、1933年(昭和8)制作の笠原吉太郎『満州の床屋』。右は、同年に描かれた笠原吉太郎『満州風俗』。『満州風俗』は、高良武久Click!・高良とみClick!夫妻に所蔵されていた。
◆写真下:上左は、1923年(大正12)ごろ制作の笠原吉太郎『百合の花』。上右は、1927年(昭和2)制作の『ひめます』。下は、風景作品が現存するかもしれない大正期の三里塚「御料牧場」。