林芙美子Click!は、実に多面的な“顔”をもっていた。特に仕事面ではその傾向が顕著で、人間関係において多様な軋轢や好悪感が生じている。また、当時は「女流作家」という言葉が生きており、特に芙美子のような経歴の小説書きには差別的で、周囲からなにかと低くみられる傾向も強かっただろう。今日、女性作家のほうが多いような感触をおぼえるのだが、当時は「文壇」といえば男の世界だった。これは美術の「画壇」も同じで、「女流画家」という言葉がなかなか死語にならない現象にも似ている。そのような抑圧に対する抵抗や反発を、割り引いて考慮しなければならない、芙美子の言動のテーマも多々あるのだが・・・。
 さて、プライベートの林芙美子は、仕事をする作家としての彼女の表情とはかなり異なっている。特に泰(やすし)を養子に迎えた1943年(昭和18)からの彼女は、家庭生活においてはまるで別人のような印象を周囲へ残している。2010年(平成22)に出版された桐野夏生『ナニカアル』では、泰は養子ではなく夫・手塚緑敏Click!ではない別の父親の「実子」であると想定されているが、ここでは従来のとおり「養子」として話を進めることにする。
 自分の作品が世に出て認められるためには、他者を蹴落とすことでも目立つことでもなんでもする、手段を選ばない自己顕示欲のかたまりのような性格・・・という林芙美子のイメージを否定するのは、四ノ坂の林芙美子邸Click!とは炭谷家をはさんで東隣りに住んだ、洋画家・刑部人Click!の二女・中島若子様だ。「プライベートでは、とても穏やかでやさしい方でした。芙美子さんのイメージは、仕事面での容赦のなさが強調されすぎていると思います」と語る。
 確かに、「文壇」の久米正雄などとの対立では陰口・悪口・ウワサ好きな、彼女を正面から批判できないヒキョーで情けない男たちによって、あることないことが言いふらされ(久米正雄+取り巻き連中だろう)、それが戦後まで尾を引いていた側面を否定できない。男の嫉妬ほど、ぶざまで薄らみっともないものはないと思うのだが、林芙美子に接した文学関係者の多くの男たちが、彼女のことを「ルンペン作家」と蔑む裏側に、そのような嫉妬心が見え隠れするようにも思われる。わたしは、かなり世話になった長谷川時雨Click!にうしろ足で砂をしっかけるようなマネをし、今日的で優れた尾崎翠Click!に対しては無神経きわまりない言葉を投げつける林芙美子がキライなのだが、彼女のことを「ルンペン作家」と嘲笑した男たちは、それ以下の貧困な精神しかもちあわせていない連中のように見える。

 中島(刑部)若子様は、1944年(昭和19)3月に下落合4丁目2074番地(現・中井2丁目)の刑部人邸Click!で生まれた。林芙美子の養子・泰とは学年が同じだったので、林家とは食事に呼ばれるほど親しく交流しており、芙美子とはともに濃密な時間をすごしている。若子様はお昼になると、ほぼ毎日のように食事に呼ばれ、芙美子が作った昼食をご馳走になっている。よく出されたのは、バタートーストに紅茶のメニューだった。トーストは変わっていて、パンを焼いてバターを厚めに塗り(敗戦からすぐのころ、バターは高額でとても貴重だったろう)、その上に浅草海苔を載せるというものだった。食事は芙美子、手塚緑敏、泰、中島若子様の4人で食べるのが通例で、母親の林キクClick!は離れでおそらく別メニューの食事をしていたようだ。
 書斎で仕事をするときも子どもたちを離さず、泰と若子様は机に向かって執筆する林芙美子の背中を見ながら、“おままごと”をして遊んでいた。仕事中は気を集中させるため人を寄せつけない作家が多い中で、芙美子のスタイルはかなり異例だ。いや、彼女も本来はそのような執筆スタイルだったのかもしれないのだが、子どもができてからの彼女はライフスタイルが豹変していると思われる。背後で子どもたちがいくら騒いでも、芙美子は上機嫌で執筆をつづけていたらしい。林家で夜間、作家たちのパーティがあるときなども、若子様は芙美子に呼びだされた。泰がひとりで退屈しないよう、いっしょに遊んでもらうためだった。
 また、芙美子は子どもたちのために、自邸の敷地内へ本格的なプールを造成している。林泰と若子様は、夏になるとよくプールで泳いだそうだ。どうやら泰は若子様を独占したかったらしく、彼女が友だちを連れていくと若子様だけ中に入れ、他の子どもたちはシャットアウトされたらしい。これは、「泰(たい)ちゃんには冷たくされた」という記憶をもつ、炭谷太郎様Click!の証言とも一致している。若子様は、林家に遊びにくる白系ロシア人の血をひく、作家・大泉黒石の娘・大泉淵(えん)のこともよく憶えていた。俳優・大泉滉の妹にあたる人物で、林邸のすぐ上の四ノ坂沿いに一家で住んでいた。戦時中は、なにかと白い目で見られていた淵を、芙美子はあれこれ面倒をみてかわいがっていたようだ。
 
 
 心臓がよくなかった芙美子だが、呼んだハイヤーをなぜか中ノ道(下ノ道=中井通り)Click!に付けさせず、四ノ坂上に駐車させてわざわざバッケ(崖)階段を上っていったという。心臓に負担がかかるので中ノ道側へ呼べばいいのだが、高い丘上へハイヤーを呼んで乗りこみたいという彼女の屈折した感情だろうか。林邸からほんの100mほどのところに住んでいた、下落合2108番地の吉屋信子Click!が丘上でハイヤーに乗りこむ姿を、芙美子は羨望の想いで眺めていたのかもしれない。心臓に負担をかけるつまらない行為のようだが、彼女にとってはたいせつな見栄だったものか。
 「おそらく、芙美子さんにとっては、子どもといる家庭生活が幸福のときだったんでしょうね」と、若子様は回想する。家庭を離れ、外を向いて仕事で勝負をするとき、彼女は修羅の表情を浮かべていたのかもしれない。しかし、子どもを前にした家での芙美子は、まるで別人格のように穏やかでやさしく、また繊細な配慮を見せる女性だった。むしろ、子どもたちに対しては盲目的で言いなりになっていた・・・と表現したほうが適切かもしれない。
 こんなこともあった。芙美子が刑部家の子どもたちと、京都の島津家訪問のため列車に乗っているとき、若子様の7つ年上の兄・伸二様がボックス席のアームの上に立ち、それを伝って車内をあちこち動きまわっていた。同じ車両の男性が彼を叱って注意をしたところ、林芙美子は激昂した。「幼い子どもに、大のオトナが本気で怒るとはなにごとか!」と、男性に噛みついたらしい。車内で行儀の悪い子を叱るのはあたりまえであり、叱った男性が正しいと思うのだが(おそらく芙美子も頭ではわかっていただろう)、感情的にはガマンができなかったようだ。泰を育てることで一気に母性がめざめたものか、芙美子は子どもたちに対して底の知れない極端な寛容さを見せている。
 
 
 中島若子様に限らず、生前、林芙美子に接した子どもたちは、「やさしくて愛情深い女性」という印象を強く抱いている。彼女の家庭生活が、“近所の子どもたち”の目を通じて語られることは少なかったと思われるのだが、晩年の芙美子の一側面を垣間見ることができる、貴重な証言だと思われる。夜間にもかかわらず快く取材に応じてくださり、ありがとうございました。>中島若子様

◆写真上:書斎で執筆中の林芙美子の背後で、中島若子様はよく泰(たい)ちゃんと遊んだ。
◆写真中上:1947年(昭和22)の空中写真にみる、林芙美子邸と刑部人邸Click!の位置関係。
◆写真中下:上は、林芙美子・手塚緑敏邸の母屋と屋根。下は、同邸台所の流しと米櫃。
◆写真下:上左は、林芙美子と泰。上右は、めずらしい林芙美子晩年のカラー写真。下は、林芙美子が四ノ坂上に呼んだハイヤーへ乗るために何度も往復した島津家Click!寄進のバッケ階段。