西坂の丘上にある徳川邸Click!は、下落合東部の近衛邸などと同様に明治期から建設されており、落合地域に建てられた西洋館のなかでも古い部類に属している。しかも、当初は本邸ではなく1908年(明治41)に下落合701~7011番地の丘上へ別邸として竣工したものだが、東京が35区Click!に再編されてしばらくのち、市街地の牛込河田町にあった本邸を整理したものか、下落合が本邸として機能していたようだ。
 西坂の徳川邸に住んでいた徳川義恕(よしくみ)について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌編纂委員会)の「人物事業編」から引用してみよう。
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 徳川義裕 下落合不動谷
 当家は侯爵尾州家の分家にて男は故従一位徳川慶勝氏の十一男にして明治十一年十一月を以て出生 同二十一年分家を創立し、特旨を以て華族に列せられ男爵を授けらる、先是同三十五年学習院中等科を卒業し軍務に服し陸軍歩兵少尉に任官、日露役に従軍す、曩(さき)に侍従宮内省内匠寮御用掛を仰付らる。本邸は牛込区市ヶ谷河田町に在り別邸は明治四十一年に設けられ今日に至る。夫人寛子は津軽伯爵家の出である。
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 徳川邸には、ボタン園として東京じゅうに知られていた「静観園」Click!や、大規模なバラ園などが存在しており、近所に住む画家たちのモチーフとして人気を集めた。徳川邸から、北へ200mほどのところにアトリエClick!をかまえた吉田博Click!をはじめ、当時は目白文化村Click!の第一文化村北側の下落合1385番地に住んでいた松下春雄Click!、松下とは帝展仲間で薬王院墓地のすぐ西側に住んでいた、鈴木良三Click!のアトリエClick!だった家をそのまま借りていると思われる有岡一郎Click!などが、徳川邸を訪れては作品を描いていたとみられる。
 以前、徳川様をお訪ねしてお話をうかがったところ、男爵だった徳川義恕の寛子夫人が、吉田博と親しかったことを知った。しかし、早逝した松下春雄Click!のことはご存じはでなく、大正末の一時的な仕事だったため、寛子夫人の印象が薄かったのかもしれない。わたしが持参した、バラ園を描いた松下春雄作品を、「うん、確かにこれはうちの庭です。あそこいらにね、バラ園があったんだよ」とご教示いただいたが、当代は初めて目にされる松下作品だった。
 あるいは、松下春雄は名古屋で勢いのあった画会「サンサシオン」Click!の中核メンバーであり、光風会展や帝展にも入選していた関係から、寛子夫人ではなく徳川義恕自身と交流があった可能性もある。徳川義恕は、分家する以前は尾張藩が国許にあたるため、名古屋には係累や知人も多く、同地域の事情や動向には明るかったと思われるからだ。


 松下春雄は、1926年(大正15)4月に名古屋で開催されたサンサシオン第4回展からもどったあと、第1回聖徳太子奉賛美術展に作品を出品している。おそらく、その間に西坂の徳川邸を訪れ、当時は広い庭園の東側から不動谷(西ノ谷)Click!の斜面にかけて存在していたバラ園を写生しているのだろう。松下が徳川邸のバラ園を描いた作品としては、同年の『徳川別邸内』と『下落合徳川男爵別邸』Click!の2点が現存している。当時は徳川邸母屋の北側にあったボタン園、「静観園」は開放されていたが、庭園の芝庭からさらに奥まったところにあるバラ園は非公開であり、そこまで入りこんで写生しているということは、徳川家と松下春雄の交流が感じられるのだ。
 また、松下春雄は1926年(大正15)の初秋、帝展仲間でありサンサシオン展へも作品を発表していた、下落合800番地の有岡一郎を同行して再び徳川邸を訪れ、今度は邸の南側に拡がっていた芝庭から、赤い屋根の大きな徳川別邸(旧邸)を入れた画面を描いているとみられる。
 松下は水彩で『赤い屋根の家』を、有岡は油彩で『初秋郊外』を描いているが、1936年(昭和11)の少しあと、モチーフとなった旧邸は解体され、やや南に下がった庭園の位置へ、さらに巨大な西洋館の母屋(新邸)が建設されることになる。新邸は戦災にも遭わずに戦後まで残り、リニューアルされたのはおそらく1970年代ではないかと思われる。この新邸建設で母屋の北側に位置し、敷地が広く東西に長かったボタンの「静観園」は東寄りの斜面へと移動し、庭の東半分を占めていたバラ園も、母屋に敷地をいくらか削られて、かなり規模を縮小しているのではないだろうか。
 そして、2年後の1928年(昭和3)4月末ないしは5月初めに、寛子夫人と親しかった吉田博が徳川邸を訪れ、『東京拾二題』の1作「落合徳川ぼたん園」Click!を版画作品として残すことになる。大正期の「静観園」について、当時は小学生だった毎日新聞記者・名取義一の証言が残っている。1992年(平成4)に出版された、名取義一『東京・目白文化村』から引用してみよう。
 

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 下級生のとき、ある先生が転校になり、その見送りのため全校児童が、この通りの西側に徳川邸まで並ばされた。/して路上で女性の青柳先生が大声で「〇〇先生がこのたびオカミの都合により・・・」と説明した。私には、この“御上”が解からなかった。/ともかくこの辺は、目白文化村と違って和風の邸宅が多かった。/この“徳川さん”と言われたのは、徳川義寛(ママ)男爵である。同家は尾張・徳川家の支藩・大垣の殿様であった。/当時、子供心にうれしかったのは、同屋敷では、毎年五月になると、その庭園を開放し、見事なボタン群を一般に見せたことである。小学校では皆にこのボタンを写生させた。また藤棚もきれいであった。その門前には小店が出て、私などベンケイガニを買ったのを覚えている。
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 文中の「青柳先生」とは、佐伯祐三Click!の隣家に住んでいて佐伯一家とも親しく、のちに「テニス」Click!をプレゼントされた青柳辰代Click!のことだ。
 これらの作品を眺めると、大正末から昭和初期にかけての西坂・徳川邸の風情を、おおよそつかむことができる。半島のように南へ突き出た、西坂上の敷地北寄りには赤い屋根の母屋(旧邸)があり、その北側から東にかけては毎年ボタンの季節になると一般に開放された「静観園」が設けられていた。また、邸の南側には池のある芝庭が一面に拡がっていたが、敷地の東側に切れこんだ谷寄りの位置(現在の聖母坂寄りの敷地)には、やはり5月ごろにはみごとな花を咲かせた大規模なバラ園が設置されていた。
 松下春雄の『下落合徳川男爵別邸』は、西側から東を向いて描いたバラ園の入り口であり、『徳川別邸内』は背後に広めの谷間とコンクリートの擁壁(現在は久七坂が通う丘)が見えていることから、バラ園内部をやはり西から東を向いて描いたとみられる。また、松下の『赤い屋根の家』と有岡一郎の『初秋郊外』は、母屋の南側に拡がった池のある芝庭から、北側を向いてともに描いている。


 
 吉田博『東京拾二題』の「落合徳川ぼたん園」は、「静観園」の中に入って描いているので、厳密な場所の特定はむずかしいが、光線が右手前から射しているように描かれているので、その方角が南側、すなわち徳川邸の母屋や芝庭のある方角の可能性が高い。

◆写真上:徳川邸の建て替えで、だいぶ風情が変わって明るくなってしまった現在の西坂。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)の5月ごろに西坂・徳川邸のバラ園を描いた松下春雄『下落合徳川男爵別邸』。山本夫妻Click!よりいただいた「松下春雄展」図録(藝林/1988年)で、初めて目にしたカラー図版だ。下は、同時期の制作と思われる松下春雄『徳川別邸内』。
◆写真中下:上左は、1926年(大正15)の9月頃に描かれた松下春雄『赤い屋根の家』。上右は、同時期に松下と連れだって徳川邸を描いたと思われる有岡一郎『初秋郊外』。下は、1928年(昭和3)制作の寛子夫人とは懇意だった吉田博『東京拾二題』のうち「落合徳川ぼたん園」。
◆写真下:上は、各作品の描画ポイント。中は、1932年(昭和7)に撮影され『落合町誌』に掲載された徳川邸の「静観園」。下は、少し以前の西坂の風情。松下春雄が描いた『徳川別邸内』の遠景にみられる大正期のコンクリート擁壁が、西坂側にもそのまま残っていた。